礼拝メッセージより
エフタ
ギレアドは12部族のひとつガド族がモーセから分け与えられた土地だそうだ。
そこに住むギレアドさんは遊女との間にエフタをもうけた。その後正妻との間にも子どもをもうけた。そして正妻の子が成長すると、エフタに向かって、あなたはよその女が産んだ子だから何も相続する権利はないということで追い出してしまった。
追い出されたエフタはトブという所に住み、ならず者と行動を共にするようになったと書いてある。
アンモン
しばらくしてアンモンがギレアドに戦争をしかけてきた。そうするとギレアドの長老たちがトブまでやってきてエフタを連れ戻そうとした。指揮官になってアンモンと戦ってくれということだった。
エフタは、勝手なことを言うなと答えたけれども、ギレアド全住民の頭となっていただきますと言われ、民の頭になるということを確認し、そのことを主の御前でも繰り返して了承した。
戦い
その後、エフタはまずアンモン王と交渉したということが12節以下に書かれている。土地を返せ、いや返す必要はない、というようなことで交渉は決裂した。29節には主の霊がエフタに臨んだと書かれていて、そこから戦いが始まり、アンモンへ向かって兵を進めた。
その時エフタは主に誓いを立てた。30節後半から「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるのなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」と誓ったなんてことが書かれている。
当時は人身御供をする宗教が結構あったそうだ。聖書の中にも、子どもを火に投げ込んで献げ物とするモレクという神の名が登場する。しかし聖書ではこれを異教の習慣として禁じている。
しかしエフタは聖書が禁じている人身御供をするという誓いを立てている。
34節のところで、エフタは戦いに勝ち家に帰る。そうすると自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で他にこどもはいなかった。一度口にした誓いは鉄の掟と考えられていたようで、この娘を焼き尽くす献げ物としないといけなくなってしまった。娘も逃れようがないと思っているようで、ただ二ヶ月間自分が処女のままであることを泣き悲しむ猶予をもらった。当時女性は、妻となり母となることが幸福であり、それが叶わないことは不幸であり恥であると考えられていたそうで、そのことを嘆き悲しむ二ヶ月ということらしい。そしてその後献げ物とされ、そこからイスラエルの娘たちは年に四日間、エフタの娘の死を悼んで家を出るというしきたりができた、と書かれている。
誓い
しかしなんで家から迎えに出てくる者を焼き尽くす献げ物とするなんて言ったのだろうか。それほど主の助けが欲しかったのか。それほど自信がなくて不安だったのだろうか。
そりゃあ不安は一杯あっただっただろうと思う。でも迎えに出て来た者を献げ物とするなんて勝手な言い分だと思う。自分が苦しい思いをするとか、自分が痛い思いをするとか、自分の命を献げるとかならまだ分かる気もするけれど。家の者を献げ物にするということは勝手な言い分だなと思う。
そもそも誰が迎えに出てくると思ってこんなことを誓ったのだろうか。奴隷とか家来とか、そういう人が出てくるに違いない、家族が出てくることはないと思っていたんだろうか。それにしてもなんだか訳が分からない。
だいたいこんな誓いは有効なんだろうか。守らないといけないのか。ついついおかしなことを口走ってしまいました、と謝ってすまないのだろうか。撤回することは許されないことなんだろうか。撤回を申し出ることもできないほど神は恐ろしい存在なんだろうか。
似たような話に、アブラハムが神から息子のイサクを献げなさいと言われてイサクを献げようとした話がある。あの時は神が身代わりの羊を用意していた。どれほど神に忠実であるかということを試したみたいで、それはそれでどうなのかなとは思うけど、まあ兎に角結果的には息子を献げ物にすることはなかった。
でも今回は身代わりはないようだ。アブラハムの時には、主の命令で献げるようにということだったけれど、今回はエフタが自分が勝手に誓ってその通りにしただけだ。その間神の言葉は何もない。エフタが誓った時にも、答えてもいないし、娘を献げる時にも主の言葉はない。
取り引き
イエスは誓うなと言っている。(マタイによる福音書)
5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
これを献げるからこうして下さい、自分はこうするからあなたはこうして下さい、というのは取引だ、と誰かが書いていた。神に対して誓ったことは必ず果たす、というのは立派なことではあるのだろう。けれどイエスは誓うなと言っている。それは神と取引をするなと言われているということなんじゃないかと思う。それは神は取引をする相手ではないというか、取引をしなくてもいい、と言おうとしているのではないかと思う。取引をするときには、取引をする材料を自分が持っていないといけない。
イエスはまた、求めなさい、そうすれば与えられる、と言われた。神は取引する相手ではなく、求める相手なのだと思う。取引しないといけないとしたら、求めるものに相当するものを自分がもっていないといけない。でも求めるのであれば、自分は何ももっていなくてもいい。
何もなくても
生まれたばかりの赤ん坊が、母乳を求めるのに取引をしないように、私たちも神と取引する必要はないのだろう。
立派な信仰、立派な行い、一杯の献金、そんなものを材料にして初めて神に求めることができるように思いがちだ。正しい人間になって、罪を犯さない人間になって、良いことをいっぱいして、悪いことはしなくなって、そうすることで初めて神が自分の願いを聞いてくれるのではないか。逆にそういうものがなにもない、正しくない間違いばかりの自分には神さまは目を注いでくれないような、何も求めてはいけないような、求めても叶えてくれるはずもない、そんな思いに私たちもなりがちなのではないかと思う。
私たちの神は何もない、何もできない私たちのことをしっかりと見てくれている。愛してくれている。大事に思ってくれている。イエスはそのことを、そんな神の思いを伝えてくれていると思う。
だからイエスは誓うなと言われているんだろうと思う。誓わなくてもいい、取引なんてしなくてもいい、ただ求めなさい、それでいいんだ、お前に何もなくても何もできなくても必要なものは私が与える、お前が大切だから、お前が大事だからだ。だからそのことを感謝して喜んで生きて欲しい、神はそう言われているように思う。