礼拝メッセージより
士師記
モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエル人たちは、その後ヨシュアをリーダーとしてカナンの土地に入り、それぞれの部族が神から割り当てられた土地を手に入れようとする。神の命令はそこに住んでいるカナン人を完全に滅ぼすようにということであったけれども、カナン人たちを一掃することはできなかった。
先住民であるカナン人たちはイスラエル人にとっては異邦人である、異教徒であった。聖書にはカナン人たちを一掃しなかったことで、神は後に異国民をイスラエルの敵として用い、彼らの異教の神々をイスラエルの罠とされたと書かれている。
カナンの土地へとやって来た時の指導者であるヨシュアの死後から、サムエルという預言者が登場するまでの400年位の間、士師と呼ばれる英雄たちが登場してイスラエルを救済することになる。
またかよ
今日の聖書はその士師の内のひとり、エフタという人の話し。
10章6-7節に「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行い、バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。彼らは主を捨て、主に仕えなかった。主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らをペリシテ人とアンモン人の手に売り渡された。」
イスラエル人たちは、平穏無事な生活が続くと、だんだんと自分達の神である主を忘れて他の国々の神に仕え、やがて他の国の脅威にさらされると、今度は又主に助けを求める。今回主はイスラエルの人々に対して、前もお前達を助けたのに、わたしを捨てて他の神々に仕えたではないか、もうお前達を救わない、お前達は他の神々が救ってくれるだろう、と突き放す。それでもイスラエルの人たちが主に対して、自分達は罪を犯しました、他の神には従いません、どうか救って下さい、と言った。10:16には、「彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになったので、主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった」と書かれている。一度は突き放したけれども、そこまで頼られて知らん顔をするのに耐えられなくなったと書かれている。
エフタ
そこに登場するのがエフタ。11章はそのエフタの生い立ちが書かれている。勇者であった、とあるように力があって戦いに強い人だったのだろう。
エフタは遊女の子であり父親はギレアドである。11:1にギレアドの人エフタとあるように、ギレアドはその地方の地名でもある。12部族のひとつガド族がモーセから分け与えられた土地だそうだ。エフタの父親はそのギレアド地方に住んでいるギレアドさんらしい。
このギレアドさんは遊女との間にエフタを産み、その後正妻との間にも子どもをもうけた。そして正妻の子が成長すると、エフタに向かって、あなたはよその女が産んだ子だから何も相続する権利はないということで追い出してしまった。ということはそれまで一緒に住んでいたということらしい。
追い出されたエフタはトブという所に住み、ならず者と行動を共にするようになった。
頭
ギレアドとアンモンは戦争状態にあったが、ギレアド側は指導者となるものがいなかった。10章18節には「ギレアドのしどうしゃたちが「アンモンの人々に戦いを仕掛けるのは誰だろうか。その人が、ギレアド全住民の頭となろう」と言ったと書かれている。
しばらくしてアンモンが戦争をしかけてきた。そうすると指導者のいなかったギレアドの長老たちが思い出したのがエフタだった。
トブまでやってきてエフタを連れ戻そうとした。指揮官になってアンモンと戦ってくれということだった。ならず者と共に行動して力もあり、ならず者をまとめる指導力もある、というような噂でもあったのだろうか。
遊女の子だからということで兄弟たちから追い出されていたエフタだった。兄弟たちだけではなく、周りからもそんな見方をされていたんだろう。そうやって追い出しておいて、困ったことになったら帰ってこいなんて勝手すぎるだろうと思う。
エフタは、勝手なことを言うなと答えたけれども、ギレアド全住民の頭となっていただきますと言われ、ただ戦いの指揮官ではなく、民の頭になるということを確認する。そしてそのことを主の御前でも自分の言った言葉を繰り返した、と書かれている。
実際エフタの気持ちはどんなだったんだろうか。のけ者にしておいて今更助けてくれなんて勝手なことを言われてるわけだ。お前たちのことなんて知ったことか、と言ってもいいような状況だ。
それとも頭になるならということで納得したんだろうか。除け者にされた自分が頭となるということ、立場が逆転するということでざまあみろという気持ちになれたんだろうか。それとも、除け者にされても自分達の部族のことだから協力しようと思ったんだろうか。
エフタは主の御前でも自分の言った言葉を繰り返したと書かれている。知ったことかという気持ち、ざまあみろという気持ち、助けてやろうかという気持ちが入り交じっていたんじゃないかなと思う。そして自分が頭になってやっていけるのか、相手に勝てるのかという心配も大きかったんだろうと思う。
主の御前で自分の言った言葉を繰り返したというのは、何度も繰り返し祈ったということなんじゃないかと思う。ギレアドの人たちの要請に応えてついてきたけれど本当にそれで良かったのかどうか、本当に大丈夫なんだろうか、どうか助けてほしい、そんなことを神に祈ったんじゃないかなと思う。
ツンデレ?
人生は選択の連続だ。こっちにするかあっちにするか選択する。そして度々どっちを選べばいいのかと悩む。これで良かったのかと選んだ後も悩んだりする。
そこで祈る事ができるのは嬉しいことだと思う。こっちにしなさいという神の声は聞くことができないかもしれない、というか聞いた記憶はない。答えは聞こえなくても、祈りことができる相手がいるというのは嬉しいことだ。
私たちはどっちを選んだにしても助けてくれるように、守ってくれるように祈ることができる。そして祈る事で、助けを求めることができる相手である神が、いつも自分と一緒にいてくれることを思い出させてくれる。
面白いなと思ったは、エフタが7節でギレアドの長老たちに言った「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出したではありませんか。困ったことになったからと言って、今ごろなぜわたしのところに来るのですか。」という言葉は聖書の中で神が繰り返し語っている言葉みたいだなと思った。
神も、平穏無事な時には知らん顔しておいて、違う神を拝んでおいて、いざ大変なことが起こったら私に助けを求めているのか、と何度も言っているように思う。しかもそんなことを言いつつ、私が間違ってましたと言って悔い改める私たちを何度も何度も助ける、それが聖書が伝えている神の姿のようにも思う。
やっぱり神はツンデレなんじゃないかと思う。厳しい事を口にしつつ、でもやっぱりお前が好きで好きでたまらない、大事で大事で仕方ない、神の根本的な思いがそんなところにあるみたいだ。
だからこそ私たちはこの神になんでも祈る事ができるし、思いをぶちまけることができるし、また助けを求めることができるのだろう。
そしてエフタがギレアドの長老たちの要請に応えたように神も、全く仕方ねえなあと言いつついつも一緒にいてくれている、いつも守ってくれているんだろうなと思う。
全くありがたいことだ。