礼拝メッセージより
嫉妬
それにしてもひどい話しだなと思う。
アブラハムとサラ夫婦はは聖書では良い人間、信仰深い人間のように書かれているけれど本当にそうなんだろうかという気持ちがある。新約聖書には彼らの信仰を称えるような書き方をしていることもあって、そういう気持ちで創世記を読んでいたけれど、彼らは特別立派な人間でもないような、特別信仰深い人間でもないような気がしてきている。
アブラハムとサラにはなかなかこどもが生まれなかった。そのままこどもが産まれないとアブラハムの財産は僕が引き継ぐことになっていたようだ。そこで妻のサラは女奴隷ハガルにアブラハムのこどもを産ませることにした。当時はそういうこともよくあったそうだ。自分が産まなくても自分の夫の子であるならば良しとしよう、自分ももう高齢なんだから、ということだろう。
そしてハガルは身籠もった。そうするとハガルは正妻のサラを軽んじるようになったと書いてある。そうすると逆にサラはハガルにつらく当たるようになり、ハガルは一度サラから逃げたことがあった。
ハガルがサラをどれほど軽んじたのか分からないし、奴隷であるハガルが主人であるサラをどれほど軽んじることができるのだろうかと言う気もする。勿論アブラハムの子を宿したということで、奴隷と主人という二人のそれまでのバランスが多少なりとも崩れたであろうことは想像できる。完全に自分の支配下にあるはずのハガルが自分と対等な、あるいは自分よりも上の立場になってしまうのではないかということを殊更サラが心配したためにハガルにつらくあたるようになったんじゃないのかなあ、なんて邪推してしまう。
しかしその時にはハガルはまたアブラハムの元に帰りハガルはイシュマエルという男の子を産んだ。
新たな約束
その後アブラハムが99歳になったときに、神はアブラハムと契約を立て、そのしるしに男子はみんな割礼を受けた。その時にカナンの土地を子孫に与えるという約束を確認するかのようにもう一度アブラハムに語りかける。来年サラがこどもを産むと、その子をイサクと名付けるように、私は彼と契約を立てる、なんていうことを言う、そしてイシュマエルも祝福するということも約束する。その時イシュマエルは13歳だったと書いてある。
イサク
翌年、神の約束どおりイサクは誕生する。アブラハムが100歳、サラが90歳の時だった。サラの生涯は127年、アブラハムの生涯は175年だったと書いてある。創世記の最初の方に登場する人たちは何百年も生きたなんてことも書いているので、今の年齢と同じに考えることはできないだろうけれども、それでもアブラハムもサラもかなり高齢で、普通こどもを産めるとは考えられないような歳であったということは事実だったようだ。
神の約束は果たされたわけだが、イサクが乳離れした後に、イシュマエルが弟であるイサクをからかっているのを見たサラは、ハガルとイシュマエルに対する敵意を燃やし、彼らを追い出すようにとアブラハムに言ったと書いてある。
しかしここで「からかっている」と訳された言葉は本来は「たわむれる」という意味だそうで、いじめているというよりも一緒に遊んでいるということだったようだ。
イサクが乳離れしたのが3歳位だとすると、イシュマエルは17歳位ということになる。
嫉妬
サラはきっと結婚して以来の念願であったアブラハムの子を産むことができた。でもサラに取って全てが満たされたわけではなかったということだろう。飽くまでも長子はイシュマエルであって、正妻である自分が産んだ子供ではあっても、イサクはやはり2番目の子であった。サラにとってはイシュマエルは邪魔な存在であったんだろうと思う。一番でいたいという気持ちをずっと持ち続けていたんじゃないかという気がしている。だからいちゃもんをつけてイシュマエルもハガルも追い出そうとしたんだろうと思う。
そもそもサラが自分が計画して産まれてきたのがイシュマエルであって、イシュマエルにしてもハガルにしても全く迷惑な話である。そしてアブラハムにとっても自分のこどもであるイシュマエルを追い出すというのは簡単な話ではなかっただろう。
アブラハムはサラの言うことに逆らうことがほとんどない。だいたいサラの言うとおりにしている。神に逆らうこともほとんどないが。そこでアブラハムは悩むが、神からイシュマエルも一つの国民の父とする、という声を聞いて、サラの言うとおりにハガルとイシュマエルを、パンと水を持たせて追い出してしまう。
それにしてもひどい話しだなと思う。聖書もこの箇所では、あの女とかあの子という言い方をしてイシュマエルという名前も出てこない。12節では神さえも、あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい、なんて言う言い方になっている。なんだか神も聖書も含めてみんなでハガルとイシュマエルを邪魔者扱いしているような気がする。
泣き声
追い出された者にとっては、そのあたりは砂漠で命の危険にさらされるようなところだそうだ。水がなくなってしまうと死ぬしかない。死にかけた息子が死ぬのを目の当たりにするのが忍びなくて、ハガルは少し離れて息子を見つめていた。そこで神はイシュマエルの泣き声を聞いて、ハガルに彼を抱きしめてやりなさいと言って、井戸を見つけさせ彼らはやっと助かる。
この箇所だけ読むとイシュマエルはすごく幼い子供のようなイメージがして、ずっとそうだと思ってきた。けれどよく見るとイシュマエルはもう17歳位になっているはずで、ちょっと違和感がある。
その後イシュマエルは荒れ野で弓を射る者となり、エジプトから妻を迎えたと、いきなり随分とあっさりと書いてある。
神のことば
神の約束ってなんなんだろうかと思う。聖書では神が目の前に現れて言葉を聞かせたような書き方をしているけれど、実際にそんなことはあるんだろうか。そんなことがあるんならもっと分かりやすく、サラが子供を産むからイサクと名付けなさいと最初から言ってくれればよかったのにと思う。そうしたらサラもそれを信じて待てたかもしれないし、そうしたらイシュマエルは生まれてこなかったかもしれないし、そうするとハガルとイシュマエルを追い出すような悲劇も起きなかったのにと思う。
僕は神が目の前に現れて何かいってくれるなんてことは未だかつてない。神の言葉を耳で聞いたこともない。当時はあったのだろうか。
ここでアブラハムが神から、あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよいとか、あの女の息子も一つの国民の父とする、というようなことを聞かされたと書いている。追い出されたハガルは、必ずあの子を大きな国民とする、ということを聞かされたと書いている。何か問題に直面した時にこうやって神が現れて慰めてくれたらいいなと思うけど、そんなことは経験したことはない。
でも後になってよくよく考えるとそういうことだったのかと思うことはよくある。アブラハムもハガルも、実は後から考えるとそういう神の意志だったんじゃないかと気付いたこと、あるいは神から示されたことが、この時神から告げられたこととしてここに書かれているんじゃないかという気がしている。
そしてそれはアブラハムとっても、ハガルにとっても何よりの慰めと励ましとなる神の言葉だったんじゃないかという気がする。
安心
人間が生きていく上ではいろんないざこざがある。みんな仲良く生きていければいいんだろうけれど実際にはそうもいかないことも多い。
聖書ではハガルとイシュマエルが悪者であるかのように書いてあるけれど、実際にはサラの被害妄想がこのいざこざの原因なんじゃないか、ハガルとイシュマエルは被害者なんじゃないかという気がしている。しかしそのハガルとイシュマエルも神は守ったと聖書は告げている。
私たちも自分の被害妄想や自分のわがままで誰かを傷つけることもある。苦しめることもある。その相手も神が守ってくれるなら安心する。相当わがままだけど、でも安心する。
不条理な世界で傷つけ合いながら生きている私たちだ。偉そうな立派なことを言いつつ実体が伴っていない、なかなか愛することもできない、それが私たちの現実だ。でもここにも神がいる。間違いだらけの私たちと共にいてくれている。そんな私たちをも神は慰め励ましてくれる、今日の聖書はそのことを伝えてくれているのではないかと思う。