礼拝メッセージより
願ったり叶ったり
子供が生まれるかどうかということが大問題となる話しが聖書の中には何度か登場するようだ。
15章でアブラハムは幻の中で主に対して、あなたが子孫を与えてくださらないので、家の僕が後を継ぐことになっていると話し、主はそれに対して、その者ではなくあなたから生まれる者が跡を継ぐ、あなたの子孫は星のように多くなる、と答えている。アブラハムは主を信じ、主はそれを彼の義と認められたとも書かれている。
17:15以下のところで神は99歳になったアブラハムに「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」と言い、また「サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」と言っている。
その時アブラハムは90歳のサラに子供が産めるだろうか、と言って笑ったと書かれている。15章では主を信じたと書かれているけれど17章では信じないで笑ったとなっている。
また18章ではソドムへ向かう前にアブラハムの元へやってきて、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」と告げている。その話しを聞いたサラはひそかに笑ったと書かれている。二人共歳を取っていることから、可笑しな話しだと思ったのだろう。主はアブラハムに、なぜサラは笑ったのか、主に不可能なことがあろうか、なんてことを言っている。サラはそれを聞いて恐ろしくなって「わたしは笑いませんでした。」と言うと、主は「いや、あなたは確かに笑った。」なんて話しが載っている。
アブラハムは175歳まで生きたことになっているので今の100歳の感覚とは違うと思うけれど、夫婦共に子供を産むのは不可能と思われるような歳であったのだろう。そんな時に来年男の子が生まれるなんて言われてもそんなこと信じられないだろうと思う。なんて馬鹿なことを言ってんだろうと思って誰だって笑うだろうと思う。子供なんてとっくに諦めてる、悪い冗談やめてくれよという笑いなんじゃないかなと思う。
しかしもしそれが本当になるとしたらそれはそれは嬉しいことに違いない。当時は子供が生まれるということはまさに神の祝福そのものというような考えだったようで、特にサラに対する風当たりは余計に強かったのではないかと思う。サラは子供が産めないという屈辱を結婚以来ずっと抱えて生きていたんだろうと思う。ハランを出発した時にアブラハムが75歳とあるのでサラは65歳、そしてカナンの地にやって来たときに主はアブラハムに、あなたの子孫にこの土地を与える、と言われている。その約束から25年ほど経ってようやくサラはイサクを産んだということになる。
約束
25年経ってやっと神の約束が実現したという話しであれば、時間はかかったけれどただのおめでたい話しということになるのかもしれない。でもあまりにも時間がかかりすぎじゃないかと思う。
しかも最初の約束はアブラハムの子孫にこの土地を与えると言う約束であって、サラが産む子供とは言われてない。サラが産む子供であるイサクとイサクの子孫と契約を立てるなんて話しをしたのは1年前のこと、つまり妊娠する寸前だった。
そのため15章では僕が後を継ぐことになっていたし、16章ではサラが自分の奴隷であるハガルをアブラハムに与えて跡継ぎを産ませるなんてこともしている。その時には妊娠したハガルがサラを軽んじるようになり、サラがハガルにつらくあたったのでハガルが逃げ出したこともあった。
またイサクが生まれた後にサラは、ハガルがアブラハムとの間に産んだイシュマエルがイサクをからかっているのを見て、ハガルとイシュマエルを追い出してしまう。
サラは自分に子供が生まれないことから、自分の奴隷にアブラハムの子供を産んでもらった。けれども産まれる前から確執があり、そして今度は奇跡的に自分自身がアブラハムの子供を産むと、ついには奴隷親子を追放してしまうことになる。
神もサラが子供を産み、その子が跡継ぎとなること、その子や子孫を契約を立てるということを最初から言っておけば、サラが余計な画策をすることもなく、余計な諍いも起きなかったんじゃないかという気がしないでもない。もちろん最初から言ってても信じられなくて同じことをしたのかもしれないけれど。
笑ってしまう
その待望の子供イサクが生まれた時にサラは、「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」なんて言っている。
結婚以来待ちに待った子供が遂に与えられたという喜びはどれほどのものかと思う。子供を産めないという苦しみにずっと耐えてきたわけだ。周りからの憐れみと嘲笑も感じていたのではないかと思う。だからこそ余計に嬉しくて嬉しくて笑いがこぼれてしまうという気持ちだったのだろう。周りの人も一緒に笑って欲しい、一緒に喜んで欲しいという気持ちもあるし、きっとそうしてくれるだろうと思ってもいたのだろう。
でもきっとそれだけじゃないようにも思う。自分をうまずめと言って見下してきた人たちに対して、そして自分の奴隷であるハガルに対して、勝ち誇ったような、見返すような思いもこもった笑いでもあるのではないかと思ってしまう。そう思うのは自分がひねくれているからなんだろうか。ただただ純粋にイサクが生まれたことが嬉しいだけの笑いではないような気がして仕方ない。
人間にはそんないろんな思いが複雑に絡まっているものなんじゃないかと思う。だからこそハガルとイシュマエルを追い出せと言い出したのだと思う。
ヘブル人への手紙11:11
「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」
ローマの信徒への手紙4:18-22
彼(アブラハム)は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。
新約聖書にはアブラハムもサラも信じて疑わなかったようなことが書かれているけれど、創世記では信じられずに笑ったと書かれている。
創世記では信じたからイサクを産み力が与えられたとは書いてない。信じたからイサクが生まれたのではなくて、ただ神の意志として神の計画としてイサクが生まれたようだ。アブラハムもサラも、神の約束を聞かされてもとても信じられず笑うしかなかった。しかし神は飽くまでも神の計画を実行する。アブラハムとサラは自分の身に起こる出来事を通して、初めて神の約束が本当だったんだと知ったのではないかと思う。
私たちは神がやってきて計画を知らせてくれるなんてことはないように思う。僕には今までそんなことはなかった、と思う。でも仮にそんなことがあったとしても、やっぱり信じられないんじゃないかなと思う。そんなことあるわけないと笑って忘れてしまうんじゃないかと思う。
神の導きや神の計画は、後になって振り返った時に初めて気付くことかもしれないと思う。そしてそれに気付いてから信仰が始めるんだろうと思う。だから信仰というのは自分の力で神の業を導き出すことではなくて、神の業についていくことなんじゃないかと思う。
思わず笑ってしまうような神の導きや神の業が私たちの周りにもきっとあるのだろう。そんな導きや業を見逃さないようにしていきたい、そしてみんなで一緒に笑顔になりたいと思う。