礼拝メッセージより
ロト
ロトはおじアブラハムと一緒に、神の与える約束の地を目指して旅に出た。ロトもアブラハムも多くの財産、家畜を持っていて、一緒にいるのは大変なので別れて住むことになり、ロトは豊かな地に見えた低地へやってきた。そこがソドムであったわけだ。しかしそのソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた、と書かれている。(13:13)
そして19章ではついにその罪の町ソドムに神の裁きが下ることになった。そのために御使いがやってきて、ロトに対して、この町を滅ぼしに来た、あなたの身内をみんな連れて逃げるようにと言われた。そこで嫁いだ娘たちの婿のところへ行って逃げるようにと行ったけれども、婿たちは冗談だと思ったと書かれている。
16節ではロトはためらっていたと書かれている。ロト自身もすぐに逃げないでいたようだが、天使に促されて妻と二人の娘と共に避難した。けれども妻は、振り返ってはいけないという天使の命令に背いて振り返ってしまったので塩の柱になってしまった、という話しだ。
ロトの妻
ソドムの町は、性的に乱れていたために神に滅ぼされることになった。しかしロトの家族にとってはそれでも大事な第二の故郷でもあったのだろう。
ロトは、叔父であるアブラハムと共に神の命ずる場所へと天幕生活をしながら行動を共にしていたことだろう。ロトの妻も、当然不便な生活を続けていたのだろう。そしてアブラハムから離れてヨルダン地方の風光明媚な豊かな土地であるソドムという場所に住む事となり、やっと落ち着いた生活ができるようになったのではないかと思う。
もともと財産にも恵まれていたし、何人かの娘も嫁がせて、それなりに夫と娘二人の四人家族で、平穏な日々を過ごしていたのだろう。
突然そこから逃げるようにと言われたけれど、そして決して振り返るなと言われたけれど、やっぱり気になるし振り返ってしまっても不思議じゃないだろうと思う。
ソドムは今の死海のあたりにあったそうで、そこにはロトの妻といわれる岩塩の柱があるそうだ。インターネットを見てみると何カ所かあるみたいで、いかにも人が立っているように見えるような岩があって、今では観光地になっているそうだ。この創世記の物語からそれらしい岩にロトの妻という名前をつけたのだろうと思う。今日の話しはまるでおとぎ話みたいだなと思うけれども、おとぎ話ってのは分かりやすい話の中に教訓が含まれていたりするけれど、今日の話しも後世に伝えたい教訓が含まれているのだろうと思う。
振り返るな
神は罪を放っておかないし罪を裁く力を持っているということを言いたいのかもしれないし、あるいは守らないと塩の柱になってしまうほど神の命令は絶対なのだと言いたいのかもしれない。
ある人が今日の箇所から「過去にとらわれるな」と言う説教をしていた。その中で、過去の失敗に、過去の栄光に、過去の屈辱に、過去の罪責感に、とらわれるなと書いていた。
過去の栄光にとらわれて、いつまでも栄光を夢見てばかりいる、あるいはその栄光をいつまでも見せびらかしているなんてのは結構惨めだなと思う。
過去の栄光よりも、過去の失敗や罪責感にとらわれることの方が多いような気がする。
あの時ああすれば良かった、どうしてそうしなかったんだろうと思うことがいっぱいある。あの時あの人にこうしてあげればよかった、こう言ってあげればよかったとか、あんなことしなければ良かった、あんなこと言わなければ良かったと思うことがいっぱいある。一番そう思うのは家族に対してだったりするけれど、そう思うと本当に苦しい気持ちになる。
しかしそのことばっかり考えて、嘆いてばかりいると、まさにその思いに捕らわれてしまい、がんじがらめにされたような気持ちになる。自分で自分を責めて、そして何をする力も無くしてしまう。
振り返るな、そんなに振り返らなくてもいい、過去に縛り付けられなくても良い、それよりも前を向いていけと神さまは言われているのではないか。
過去に縛り付けられて滅んでいくのではなく、前を向いて救われていくのか、どちらかを選ばないといけない、お前はどちらを選ぶのかと言われているのかもしれない。いつまでも過去にしがみついて生きていくのか、それとも反省すべきことは反省して、未来に向かって生きていくのか、どちらにするのかと言われてているのかもしれない。
そして今日の聖書は、過去にしがみついているとそれこそ塩の柱になってしまうから、前を向いて未来に向かって生きていけと言っているようだ。
豪雨
今回の豪雨で家を流されたり浸水したりと色んな人が被害を受けている。家に泥水が入ってきたらいどうなるんだろうかと思う。家が全部流されたりしたらどうなるのか想像もできない。
それまで培ってきた財産も一気に流されてしまうという恐ろしいことが人生には起こりえるんだと思うとちょっとぞっとしてしまう。自分がそんな目にあったらどうなるだろうか。
なくしてしまった物にいつまでも捕らわれていては、いつまでも嘆くしかない。いつまでも自分の不運を嘆き、神を呪うばかりになってしまいそうだ。
災害で一気になにもかもなくすことは私たちにはあまりないと思うけれど、少しずついろんなものをなくしていくのが人生というものかもしれないとも思う。自分の大事に思っていた物を失っていく時、やはりそこに捕らわれていては前に進めなくなってしまう。
若さもなくした、健康もなくしたと思ってなくした物ばかりを見つめていては前に進めない。
前を向いて
それでもついつい振り返ってしまうのが私たちの常だ。けれども、過去の失敗や罪責感や、あるいはなくしたものに捕らわれている私たちに対して、それでも前を向きなさい、前を向いて進みなさい、私がそんなあなたと共にいるのだ、神さまはそう言われているのではないか。