礼拝メッセージより
主
創世記17章でアブラムがアブラハムへ、サライはサラへと名前が変わると話しがある。
そして18章前半で、主がアブラハムのところへやってきて、アブラハムとサラの間にこどもが生まれるという約束を告げる。
その後主はソドムを見下ろす所まで来たときに、これから主が行おうとしていることをアブラハムに告げる、というのだ。アブラハムが世界全ての国民の祝福の基であるから伝えておこうということだった。
その内容は、ソドムとゴモラの罪が非常に重いので、その町を滅ぼすということだった。
ソドム
ソドムという町は、死海の南端の方にあったらしい。
ソドムにはアブラハムの甥であるロトが住んでいた。アブラハムが神の命令に従って故郷からカナンの地へと出てきた時に一緒についてきたのがロトだった。しばらくは一緒にいたが、お互いの家畜が増えてきたために一緒にいることができなくなった時に、ロトは低地に住み、アブラハムは高地に住むことになった。
創世記13章には、
13:10 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。 13:11 ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。
と書かれている。ロトは主の園のような潤った土地を選んで住んでいた、はずだった。ところがその土地は重い罪を持つ土地だったというわけだ。
ソドムの罪がどのようなものであったか。19章を見るとロトがソドムにやってきた二人の御使いを家に迎え入れるが、それを知った町の男たちが押し掛けてきて、「お前のところに来た連中を連れてこい、なぶりものにしてやる」と言ったなんていう話しが出てくる。なぶりものというのは性的な関係を持つことを意味しているそうで、男が男をレイプしてやると言ってるということのようだ。しかし同性愛が罪であるというのではなく、暴力的に関係を持とうとすることが罪であるということなんだと思う。
アブラハム
アブラハムはそのソドムを滅ぼすということを聞いてびっくりしてしまったことだろう。そこには甥のロト一家が住んでいるわけだ。そこでアブラハムは、面白いことを神に問いかける。
あの町に50人正しい人がいるとしても、その正しい者のために赦さないのですか、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼすようなことを不正義をあなたはするはずはありません、と言う。
神は50人正しい人がいれば町全体を赦すという。そこでアブラハムは、45人なら、40人なら、30人なら、20人なら、10人なら、と少しずつ値切るように神に問いかける。10人のために滅ぼさないというのが神の答えだった。
もっと続けて、5人なら、3人なら、一人しか正しい人がいないときはどうなるのか、と聞いてみたい気がする。そしてその答えのようなことがエレミヤ書という預言者に
5:1 エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。
と書かれている。ひとりでも正義を行うものがいれば赦すというのだ。
連帯責任
けれども正しいものがそこにいれば全体を赦す、というのは普通あまりないことだ。誰か悪いことをすればそのグループ全体が責任を取らされることがほとんどだ。家族の誰かが悪いことをした、警察沙汰になるようなことをしたとなると、家族全体が世間に顔向けできないようなところがある。社会もその家族全員を罪人の家族、というような見方をしてしまう。旧約聖書の中にも、家族全部が責任を取らされたり、町全体が責任を取らされたりしたことがあったということが書かれている。昔からそういうことが常識だった。
しかしアブラハムは、そんな正義でないことを神はするはずはないと問いつめた。そして神もそれに同意している。正しい者を悪い者と一緒に滅ぼすようなことはしないという。悪を根こそぎ絶やすために、善人も道連れにするというのは神の意志ではないということだ。
問いかけ
この箇所はアブラハムがとりなしの祈りをした、と言われるところである。新共同訳の聖書の小見出しにも、「ソドムのための執り成し」となっている。
アブラハムにとってはソドムに甥のロトがいるということが気がかりだったのだろう。だからソドムを滅ぼすことをやめて欲しいと神に願ったという話しだと思っていた。そうなのかもしれないけれどアブラハムは直接やめてくれという言い方はしていない。アブラハムは正しい者を悪い者と一緒に殺す、同じ目に遭わせる、それは神の正義ではないだろうと詰め寄っている。
今日の話しは滅ぼすことをやめるように、ソドムを救ってくれるようにとアブラハムが執り成しをしたという話しだと思っていた。
いろんな人の説教を見ても、誰かのためにしつこく祈る事が大切だ、そうすれば神も聞いてくれるというような話しが多い。
ある教会(日本キリスト教会 浦和教会)の説教で、これはアブラハムが神の意志を納得し理解しようとして何度も問いかけている、というようなことを言っていて、そうだなという気がしている。
またその説教の中に、『神様のなさることは全て正しい、全てに従わねばならない、としていきる信仰は確かに徹底的な信仰として正しいものであるかもしれません。けれども納得しようがしまいが無批判に、盲目的に、機械的に従ってさえいればよいのだ、という信仰であれば、それは同時に生きていない信仰、さび付いた信仰となってしまうのではないかと思うのです。』という言葉があった。
アブラハムは、神が滅ぼすと決めたならばそれを覆すことはできないし、それを要求することもおこがましいし、そんな力もないことも分かっていたんじゃないかと思う。しかしやはりロトのことが心配で心配で、正しい人が50人いたら滅ぼさないという保障をもらった。でもそんなにいなかったらと心配になりその数をどんどん下げていっていった、10人いたら滅ぼさないという保障をもらって、アブラハムは多少安心してのかなと思う。せめて10人はいるだろうと思ったのんじゃないか。
そうすると立派な信仰者であるアブラハムがソドムのために一所懸命に取りなしたという話しと言うよりも、ロトのことが心配で心配でたまらないアブラハムが神の気持ちを何回も何回も確認してする、そんなアブラハムに神はずっと付き添っていたという話しなのではないかという気がしている。
神の意志がどこにあるのか、私たちには分からないことだらけだ。だからこそ神に問いかけるしかないし、問いかけ続ければ良いのだろうと思う。問い続けてもいいし、問いかけ続けることが私たちの信仰なのかもしれないと言う気がしている。そんな私たちに神はずっと付き添い寄り添っていてくれるのだ。