礼拝メッセージより
祝福
祈り会では毎週1章ずつ聖書を読んでいるが、少し前に創世記を読んだ。何回かみんなでいろいろと話しをしながら読んでいるが、前回読んだときに一番気になったのは祝福ってなんだろうということだった。
アブラムは神から、あなたを祝福する、あなたは祝福になれと言われてカナン地方へと向かったと書かれている。でもその祝福ってどういうことなんだろうか。具体的にどうなることが祝福なんだろうか。
幸せになるということなんだろうか。金持ちになったり、災難にあわなかったりということなんだろうか。自分の願い事が叶うということなんだろうか。自分の願い事が何でも叶うなんてことは相当わがままなことのようにも思うし、それは独裁者になることを願うようなことにもなりかねないという気もする。
神の祝福がそんな自分だけの都合のいいことが起こることだとは思えないけれど、今日の聖書の話しは随分アブラムに都合のいい話しになっているんじゃないかという気がする。
ファラオ
カナンの土地にやってきたアブラムたちはネゲブという地方にいた。しかしその地方でひどい飢饉があったのでエジプトへ行くことにした。アブラムは妻のサライに、あなたは美しいからエジプト人に好かれるに違いない、自分の妻だとばれると殺されかねないので妹ということにしてくれと頼む。
サライの美しさはエジプト人に認められて、エジプトの王であるファラオにも気に入られて妻として宮廷に召し入れられる。側室の一人としてということなんだろう。そしてアブラムは王から家畜や奴隷を与えられる。
アブラムにとっては思惑通りの展開ということになる。しめしめと言う感じなのかな。しかしファラオと宮廷の人々が病気になり、アブラムの嘘がばれエジプトから追い出されることになる、という話しだ。
疑問
どうしてアブラムの嘘がばれたのだろうか。
20章にも似たような話しが出てくる。その時はゲラルという場所にいて名前もアブラハムとサラに変わっていた。その時も妻のサラを妹だと言ったところ、ゲラルの王アビメレクがサラを召し入れた。そうすると王の夢の中に神が現れて、あなたは召し入れた女のゆえに死ぬ、その女は夫のある身だ、と告げられた。王はびっくりしてアブラハムにどうしてこんなことをしたのかと聞くと、アブラハムはこの土地には神を畏れるということがないから妻のゆえに殺されると思った、サライは母の違う妹でもある、なんてことを言って弁解する。王はアブラハムに妻を帰して、さらに家畜や奴隷を与えて、どこでも好きな所に住んで良いという許可を与えた、というそんな話しだ。
エジプトではアブラムの嘘がどうしてばれたのかという説明はないけれど、ゲラルでは神が王の夢の中に現れて説明したとなっている。エジプトの時には何も書かれていないけれど、ゲラルで神が王にお告げをしたように、エジプトでもなんらかのお告げがあったということなのかなと思う。
それはそれとしてゲラルの話しではサラはアブラハムの母の違う妹ということになっていて、サラも王に対してアブラハムを兄だと言ったということになっていて、アブラハムが全くでまかせを言ったわけでもなく、エジプトでは無言でアブラムに従っていたサライもゲラルでは協力的だったようなことになっていて、なんだかアブラハムを擁護しているような話しに聞こえる。
あまりに似たような話しで、エジプトでの話しが発展してゲラルの話しが出来たような気もしないでもない。
もちろん別の話しかもしれないけれど、そうだとするとアブラハムもサライもエジプトでの出来事に味を占めてまた同じことをしたということなのかなと思う。妹だと言って騙しておけばだんだんと裕福になるという、なんだか身勝手な理屈な気がするけれど、神はそれにお墨付きを与えたのだろうか、とまた違う疑問が出てくる。
次の疑問は、どうして嘘をついたアブラムではなくエジプト人を病気に罹らせたのか。こういう時は嘘をついた側が罰を受けるのが世の習わしではないのかと思う。何なんだろうこれって、こんな不条理が許されるんだろうか。アブラムに神がついているからそれでもいいんだろうかと思う。
聖書教育にはサライはどういう気持ちでアブラムの言うとおりに従ったのかと書いてあったけれど、アブラムはサライの気持ちを考えていたんだろうか。一人で宮廷に入っていくわけで、それはアブラム以上に不安なことだったに違いないと思う。
身勝手
客観的に考えると本当に身勝手な話しだなと思う。しかしそもそもアブラムがこんな嘘を思いついたのは何故なんだろうか。エジプトで何が起こるか分からない、正直に話すことで自分の身にどんな危険が及ぶかわからないという不安があまりに大きかったからこんなことをしたのかな。
不安が大きすぎるとつい嘘をついてしまうというのは分かる。目の前の恐怖を避けるためについ適当なことを言ってしまうというのも分かる。自分がそんな目に遭うと同じことをしてしまいそうだし、今までも結構してきたような気もする。
客観的に考えると、冷静にというか言わば安全地帯にいる時には、アブラムがやったことにいちゃもんをつけたくもなるし、エジプト側の人間を病気にして苦しめ、妻のサライをも苦しめていることに対しても避難したくなるけれど、大変な目に遭って、苦しい中を生きてきて、大きな不安と恐怖を前にしたときに、何をしでかすかわからないなあとおも思う。身勝手なことをしてしまうそうだ。
でもそんな時でも神が守ってくれるとしたらそれは確かに嬉しいことだ。そのために迷惑をかけることになる人には本当に申し訳ないけれど、兎に角そんなわがままな身勝手なことをしてしまうような時でも守ってくれるとしたら、それはやっぱり嬉しいことだ。
神様ももっとスマートに、誰にも迷惑をかけない方法で守ってくれたらいいのに、とも思う。そうする意図がどこにあるのか分からないけれど、でも兎に角守ってくれるということなのかなとも思う。そう思うことも身勝手だなと思いつつ、でも何としても守り通すというのが神の意志なのだ、ということを伝えているような気もする。
私たちの理屈を越えた方法で支え続ける、それが神の祝福なんだろうか。