礼拝メッセージより
新天地
新しい土地へ行くということは大変なことだ。知らないところへ行くという不安もある。それと同時に、今までいたところから離れなければならないということでもある。それまで持っていたいろんなつながりを切っていかないといけない。今ならば世界の裏側にいても一日か二日あれば行けるみたいだ。会いに行かなくても連絡を取る手段もいろいろとある。
旧約聖書の時代には電話もないし、メールを送ることもできない。何千qも離れた所へ行ってしまうともう二度と会えないだろう、というような状況になる。
そんな風に新しい所へ行くということは、それまで築いてきた生活の基盤をなくすようなものでもある。そして新しい土地で新たに基盤を作り直さないといけないわけだ。木を植えかえるようなものだろうと思う。木を植えかえる時は、地中に張っている根っこをある程度切らないといけない。そして植えかえた新しい土地で新しい根を張っていく。うまく根が張らないと枯れたり倒れたりするようだ。旅立つということは、根っこを切って、新しい土地でもう一度根を張っていかないといけないということなんだと思う。それは本当に大変なことだ。
約束の地
アブラムは神から、わたしが示す地へ行くようにという命令を受ける。でもどこが示す地なのかという説明はここには書かれていない。ただ11章の最後の所を見ると、父親のテラと妻のサライ、そして甥であるロトと一緒に、カナン地方へ向かったと書いてある。しかしハランまで来たところにとどまっていて、父親のテラはハランで死んだ、と書いてある。
そのハランにいたときに受けた命令が、あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい、というものだった。生まれ故郷はすでに離れているんじゃないのかな、という気がするがどうなんだろうか。
その神が示す地というのがカナンということだったということのようだ。神が示す地というのがどこなのか分からないで出発してカナンへやって来たときに、この土地を子孫に与えると言われて初めてここが神の示す地だと分かったということなんだろうか。
どこへ行くのか、どこまで行くのかも分からないままに出発したということなんだろうか。よく行ったよなと思う。
ところで、12:4にはハランを出発した時アブラムは75才だったと書かれている。11章では、父親のテラが70歳の時にアブラムが生まれた、そしてテラは205歳でハランで死んだと書かれているいる。そうするとアブラムがカナンへ向かった時、父親のテラは145歳ということになり、まだ生きているということになる。テラが死んだ後に神の命令がアブラムにあったように書かれていて、また新約聖書の使徒言行録7:4ではステファノが説教の中でも、テラの死後にアブラムが出発したと言ったと書かれている。どっちなんだろう。テレの死んだ時の歳が間違っているのかな。
祝福
それはさておき、アブラムに対する神の命令はまるで会社の転勤の命令みたい。転勤であれば、行った先に自分の椅子がある。待ってくれている人もいる。しかしアブラムにはそこで待っている人はいない。歓迎してくれる人もいない。ただよそ者として行くわけだ。どんな土地なのか、どんな人がいるのかもきっとほとんど分かってなかっただろうと思う。おかしな人がいたら命の危険にも遭うかもしれないわけだ。なのに神は示す地へ行けと言う。アブラム自身の中にも当然多くの心配があったことだろう。
しかし神の命令はただ命令だけではない。ただ行け、というだけではない。命令と一緒に祝福の約束がある。でもきっと祝福があるということでウキウキして行ったわけではないだろうと思う。神が祝福してくれるという希望と、いろんな不安との狭間でアブラムの心は揺れたのではないかと思う。
しかしアブラムは神の命令に従って出発しシケムというところのモレの樫の木までやって来る。そこはカナン人たちの宗教活動が行われていた所だそうだ。つまりアブラムは異なる神を礼拝する民の所へ行った訳だ。しかしそこで神はこの土地をあなたの子孫に与えると約束する。
神の示す地は、異教の神々を礼拝する民のまっただ中であったということだ。そこはパラダイスではなかった。アブラムはよそ者でしかなかった。そこでアブラムはどんなことを考えたのだろうか。祝福がどこにあるのかということをいつも考えていたのではないかと想像する。神の命令に従ってここまできたけれど、アブラムの心の中には依然として心配が渦巻いていたのだろうと思う。今後どうなるか、という不安でいっぱいだったのだと思う。
アブラムはそこで祭壇を築いたとある。それは不安があったことの裏返しだったんじゃないかと思う。不安で不安でたまらない、頼る人もいない、ただ神に縋るしかない、神に縋ってないとやってられない、そんな気持ちから祭壇を築いたんじゃないのかなと思う。
また8節には、ベテルの東の山でも祭壇を築いて主の御名を呼んだ、と書いてある。神を呼んだのだろう。冷静に淡々と祈れるような心境ではなく、神よ、主よ、助けていてくれ、離れないでくれと呻くように呼んだのではないかと思う。
森有正という人の「アブラハムの信仰」という説教の中にこんな言葉がある、と誰かの説教に書いてあった。
「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅をもっております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神様にお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間がだれ憚らず喋ることの出来る、観念や思想や道徳や、そういうところで人間はだれも神様に会うことは出来ない。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことは出来ない。」
深みから
その後アブラムはいろんな大変なことも経験する。神の約束はなんだったのかというような思いにもなったのではないかと思う。
神の祝福は、自分が思い描くような夢物語が現実に起こるということではなく、あるいは自分に都合のいいように、何もかも思い通りにできるような力と知恵を持つというのでもないようだ。アブラムにも大変なことも、思うようにいかないこともいろいろと起こっている。いったいどこに祝福があるのか、どこが祝福なのかと思うようなことばかりだったのではないかと思う。
しかしだからこそアブラムは神の名を呼んだのだろう。もうどうしていいか分からない時、不安で不安でたまらない時、アブラムは神の名を呼び続けたんじゃないかと思う。
あなたを祝福する、この土地を与える、神のその約束にアブラムは縋り付いていたんじゃないかと思う。不安をいっぱい抱えながら、でもその約束を何度も何度も思い返しつつ生きていたんじゃないかと思う。
人間の心の奥底には不安や恐れなど、重い思い、重たい気持ちが沈んでいるんじゃないかという気がしてきている。平穏な時にはその不安や恐れは底に沈んでいて見えない。けれど心が揺さぶられると、沈んでいた不安や恐れは心の中に広がってくる。
しかし森有正という人が言うように、そんな不安や恐れが沈んでいる心の深みでこそ私たちは神と出会うのかもしれないと思う。
苦しみのただ中で、泣き出しそうな時、逃げ出したくなるような時、私たちは心の片隅で、心の深みで神と出会っていくのだろうと思う。その深みに神はいてくれている、その深みから神は私たちに語りかけてくれている、その深みから神は私たちを支えてくれているのだろう。
そんな深みからの神の支えによってアブラムは生きてきたのだろうと思う。
私たちも心の深みから聞こえてくるその神の言葉に耳を傾けて生きたいと思う。その言葉は私たちの人生をも支えてくれるはずだ。