礼拝メッセージより
土の器
神は私たちに、わたしたちの心の内に輝いてイエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光(6節)を与えてくれた、とパウロは言う。
1つの文の中に修飾語が多すぎて分かり辛いぞパウロさんという感じがする。神が与えてくれた光は、私たちの心の内に輝く光で、また神の栄光を悟る光、またその栄光はキリストの御顔に輝く栄光、ということかな。
7節でパウロは、わたしたちはこの宝を土の器の中に納めています、と言っている。宝とは神の栄光を悟る光であり、4節にも出てくる、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光でもあるのだろう。
そんな宝をわたしたちは土の器に納めています、と言うのだ。土の器というのは土器のこと?陶器のこと?磁器?
区別がよくわからないけれど、我が家はごはんの茶碗は陶器だか磁器だかだ。
ところでどうしてごはんの入れ物なのに茶碗と言うんだろうか。お茶をいれないのにお茶碗とは不思議だ。ついでに茶色はどうしてbrownなんだろう。緑色もお茶もあるのに。
パウロはその土の器に神から与えられた宝を納めていると言っている。つまり私たちの心、あるいは私たち自身が土の器だと言っているようだ。
茶碗は使うほどにどうしても欠けてしまったり割れてしまったりする。それはまるで人生そのものを象徴しているような気がする。そもそも人間は生まれながらに不完全であり、生きている間に倒れたり躓いたり、まわりとぶつかったりして少しずつ傷が増えていく、長く生きるほどにそんな欠けが出来てくる。
いろいろな苦難や苦痛が待ち構えているのが人生だ。神を信じたからといっても、その日から突然苦難から逃れられることは出来ない。神を信じるという事は、苦難や患難から逃れられるという事ではない。苦難に敢然と立ち向かう強い力を持つということでもないようだ。神を信じてもそのような強い超人的な人間になることはないようだ。神を信じても弱い人間であることに変わりはなく、筋がね入りの割れない器になるわけではないようだ。私たちはあくまでも土の器なままだ。
しかしそのような弱い人間が素晴らしい宝を持つ、そんな弱い人間に神は宝を与えたとパウロは言う。
苦難
パウロはコリントの教会へ宛てた手紙の中で、自分がどれほど大変な苦難にあったのか、自分の弱さをどれほど知らされてきたのかということを繰り返し語っている。しかしそんな弱い自分の中に神は宝を与えてくれた、神の栄光を悟る光を与えてくれたと語っている。だから8節以下にあるように、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず打ち倒されても滅ぼされずにいると言っているのだろう。
自分自身は土の器であり、苦しめられたり途方に暮れたり虐げられたり打ち倒されたりもする、しかしそれでもその中でもなお生きている、そんな神の力を与えられている、と言っているようだ。
また10節では、わたしたちはいつもイエス・キリストの死を体にまとっています、と言っている。ここの死は正確には殺害という意味だそうだけれど、どんな苦しみに遭ったとしても、そこにはいつも十字架のイエスが共にいる、一緒にいてくれている、それこそが私たちの力だ、パウロはそう言っているようだ。
人間は絶望したとき、自分の弱さや、駄目さを嘆いて、悔いて、その事ばかりに心を奪われてしまいがちだ。どうしてこんな人間なんだろう、どうしてこんな性格なんだろう、どうしてこんな病気なんだろうと嘆く。そしてそんな駄目な自分を自分自身で裁いてしまう。分かっていたつもりでも、自分の無力さ駄目さをつきつけられると、途端に落ち込んでしまう。自分が欠けたる者であることを思い知らされるとうずくまるしかなくなってしまう。
しかしそんな土の器である私たちの中に、欠けたる者である私たちの中に、神は宝を与えてくれているのだ。うずくまるしかない、立ち上がる力もない、そんな時にも、そこに十字架のイエスがいてくれている、そのことを知ることそれこそが宝であり、そんな宝を私たちは与えられている。
見えないものに
14節に『主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒にみ前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。』とある。さらに17節では『わたしたちの一時の軽い艱難は、くらべものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。』とある。神から賜る重い栄光に比べれば、どんな患難も軽いものだ、ということのようだ。
けれども患難、苦難は誰にとってもいやなものです。できれば避けて通りたいと思う。しかしその苦難によってわたしたちは神を知り、神の力を知り、神の愛を知るのかもしれない。苦難のただなかにある時、苦しいとき、悩むとき、人に裏切られ孤独になったとき、そんなときにこそ、神がわたしたちのすぐ隣に居てくれること、イエスがそばにいてくれることのすばらしさが分かるのではないか。
パウロにとっての艱難もとても軽いものではなかったようだ。しかしそのことを通して与えられた神の栄光を知った今となっては、それは軽いものだと言える、それほど神の栄光は大きく、重いのだということだろう。
その神の栄光を悟る光を神は私たちの心の中に与えてくれたとパウロは言う。そしてこの欠けたる土の器である私たちの心の中にも、神はその宝物を与えてくれている。
18節『わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。』
だから私たちはこの見えない神、見えない宝物に目を注いでいきたいと思う。