礼拝メッセージより
第二の手紙
コリントの信徒への手紙二は、いくつかの手紙がまとめられたものらしい。5つの手紙の集合体という説が有力だそうだ。1つ目が2章14節-7章4節、二つ目が10章-13章、三つ目が1章-2章13節と7章5節-7章16節、四つ目が10章-13章、四つ目が8章、最後が9章だそうだ。今日の箇所とそのすぐ前の13節との繋がりが全くないわけだ。
評判
パウロがコリントの教会へ第一の手紙を書いた後、コリント教会にはパウロへの新たな反対者が侵入してきて、コリント教会の人びとの心がパウロから離れていくというような事態が起こったようだ。その反対者はエルサレム教会、またイエスの直接の弟子であった12使徒たちとの密接な関係にある人達だったようだ。彼らはイエスをモーセと同様の偉大な奇跡を行った者として称え、その霊を与えられることで自分達も同じような者になってゆくことを目指した、そんな人達と考えられるようだ。
パウロは今でこそ彼の手紙が新約聖書の中に彼の手紙が多数入れられていてもいて、彼の言葉も大事にされているけれど、当時は新約聖書もまだなく、イエスに直接会ったこともないし、かつてはキリスト教会を迫害までしていた人物であったわけだ。
一方イエスの直弟子である使徒たちとも関係の深い人達がエルサレムからやってきたとなると、コリント教会の人たちにとってはそっちの人達の言うことの方が正しいことであると思えるだろうし、ありがたいことと思えたとしても不思議ではないだろう。
またこの手紙の10章10節には「わたしのことを、手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話しもつまらないと言う者たちがいる」なんてことが書かれていて、パウロの説教はつまらない、面白くない、どうもそんな評判もあったらしい。この手紙のような調子でしゃべっていたとすると、難しすぎてよく分からないということだったのかもしれない。弱さの中に神の力が現れるなんて逆説的なことを言われてもすんなりとはなかなか理解できなかったのかもしれない。
それよりも、イエスはいろんな奇跡を起こした偉大な神の子だ、と言った方が分かりやすいという気もする。第一の手紙には異言のことが出てきたけれど、異言を話す自分達は神の霊を受けている、奇跡的な力を得ているということだ、あなたたちもそれを目指しなさい、なんていう風に力強く言われると、自分も異言を話せたらと思ったり、そんな神がかり的なことこそ神の力の表れであるような気にもなりそうだ。
香り
パウロはそんなコリント教会の人たちに対して、私たちはキリストを知るという知識の香り、神にささげられる良い香りだと言うのだ。
今祈り会でレビ記を読んでいて、献げ物というのは燃やすことでその香りが神の届く、良い香りが神への献げ物となるという考えがあるように思う。そんな思いがあるからここで香りなんてことを言ってるんじゃなかろうかと思う。パウロは神の言葉を売り物にせず、誠実に語る自分達こそ、神の喜ばれる香りなんだと言っているようだ。
この売り物にするということばは、売り歩くとか商うとかいう言葉らしいが、当時はこの言葉が酒を水増しする時に使われた言葉だそうだ。酒に水を加えて薄くして儲ける時に使われた言葉だそうだ。ということはパウロが神の言葉を売り物にしないというのは、神の言葉に余計なものを混ぜて薄めてしまうようなことはしないということらしい。だから誠実に語る、正直に語るということだろう。
推薦状
それに続けて推薦状が必要なのかという話しを始める。最初に言ったように、パウロの反対者はエルサレムからやってきた使徒たちとの関係が深い人達だったようだ。イエスの直弟子である使徒たちからのお墨付きを持っている彼らに対して、パウロは何のお墨付きも推薦状もない。逆にパウロはイエスに会ったこともなくキリスト教会の迫害者だった、またパウロ自身がとげと言っている病気か障害も持っていたようで、言わば逆のお墨付きを持っているようなものだ。
パウロは自分達の推薦状はあたなたちだ、あなたたちこそ推薦状だ、しかもそれは心の板に書かれている見えない推薦状だという。あなたたちこそ、神から与えられたお墨付きだ、パウロはそう言っているようだ。パウロの話を聞き、パウロの伝えるイエス・キリストを信じ、そのイエス・キリストの言葉によって癒され、慰められ、励まされている、そんなあなたたちが自分の唯一の推薦状、お墨付きだ、それ以外のお墨付きはない、パウロはそう言っているようだ。
あなたたちが推薦状なんだ、だからパウロは、かつて自分が伝えた福音をしっかりと見つめ直して欲しい、かつて自分が伝えたイエス・キリストの言葉をもう一度しっかりと聞いて欲しい、そう願っているんじゃないだろうか。
コリント教会の人たちは、エルサレムの使徒のお墨付きを持った、見栄えの良い格好良い、そしてとても力強い説教を聞かされたのかもしれない。そしてかつてのパウロの伝えた福音からそれていたのだろう。しかしパウロはそんなコリント教会の人たちへ向かって、あなたたちは私の大切な推薦状なのだ、目に見えない大事な大事な推薦状なのだ、だから私の伝えたイエス・キリストの言葉をもう一度しっかりと聞いて欲しい、何が真実なのか、何が神の言葉なのか、それをじっくりと吟味して欲しいと伝えているような気がしている。
見えない
4:18「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
本当に大事なものは見えないらしい。見える権威、見える推薦状、あの人が言っているから本当だろうとか、そういうものに捕らわれがちだ。しかしそういう、言わば目に見えるもの目を奪われるのではなく、見えない大事なものをしっかりと見つめて欲しい、パウロはそう言っているのではないかと思う。
自分達を本当に慰め癒してくれるもの、本当に力付け励ましてくれるもの、それは何なのか、しっかりと見つめて欲しい、パウロはそう願っているのではないだろうか。
弱い自分をそのままに受け止め、そのままに愛してくれている、神の力はそこにある、パウロはそう言いつづけているような気がする。そんな見えない神の力を見つめなさい、そして本当に自分の心に響く言葉、それをしっかりと聞きなさい、いや、もうすでにその声はあなたたちに届いている、もうすでに伝えられている、だから惑わされないでほしい。イエスの言葉にしっかりと立っていてほしい、パウロはそう言っているような気がする。そしてそれはこの手紙を読む私たちに対する言葉でもあるように思う。