礼拝メッセージより
復活
キリストは復活した。そしてそれは私たちもやがて復活させられるという希望となっている、ということが15章に書かれている。パウロは3節以下の所を見ると、最も大切なこととして伝えたのはキリストが私たちの罪のために死に、葬られ、三日目に復活したことだ、と書いている。
死者はどのように復活するのか、どんな体で復活するのか、そんなことが35節から書かれている。それは種を蒔いてそこから芽が出て実を結ぶようなものだという。芽が出て実を結ぶ時には、蒔いた種はすでに元の形はなくなっている。そのように復活の時には今のこの地上の体ではなく、天上の体が与えられるというのだ。今のこの体は朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものであるけれども、復活の体は朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものとなるという。そしてそれは霊の体であるという。
それは何なのだといわれてもよく分からない。ただ神から与えられる霊の体として復活する、そうパウロは言うのだ。どんな体なのかよく分からないが、とにかく輝かしい朽ちない体で復活するという。
死ねば何もかも終わりのような気がしている。ただの暗闇のような気がしている。もし死がただの暗闇だったら、私たちは暗闇に向かって進んでいることになる。だとしたらなるべく死には近づきたくない。そしていつも死に怯えて生きていかないといけない。しかしパウロは、死は敗北ではなく暗闇ではないという。キリストによって、私たちは死に勝利しているというのだ。
死は敗北ではなくて、死の先もさらに私たちは神の手の中に、神の導きの中にあるということだろう。死のこっちと死のむこうは、私たちの目には全く別世界のように感じられるけれども、神の手の中にあることから言えば、死のこちらも向こうもつながっているということのようだ。
死は終わりではない。キリストの復活はそのことの証明であり、私たちも同じように復活するという確かな約束であるとパウロは言う。キリストが死に勝利したから、私たちも死に負けることはなく、死に際しても神の手の中にあり続ける、死は私たちを呑み込む暗闇ではなくなったと言っているようだ。
しかもそこでは朽ちることのない、輝かしい、力強い天上の体を与えられるというのだ。パウロは、最後のラッパが鳴るとともに、一瞬のうちに死者は復活して朽ちない者とされる、と言う。そしてこの朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになる、と言う。
希望
だからパウロは、こういうわけだから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさいと言う。死をも越えた希望がある、そこから今のこの命を生きる力を与えられるということのようだ。
だからパウロはその希望を持って主の業に励みなさいと言う。朽ちないものを与えられるから、主の業に励みなさいと言う。神のことばを聞いて、神の命令を聞いて、神から託されている務めを果たしていきなさい、ということだ。それは神を愛し隣人を愛していくこと、そのために自分を献げていくということだろうか。
パウロは、主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです、と言う。主に結ばれていると苦労がない、というわけではないらしい。苦労はある。でもそれは無駄にはならないという。自分を献げること、隣人を愛していくこと、神の業に励むことは苦労することでもあるようだ。自分が苦労することをいやがっていては、それでは隣人を愛することはできない。神の業に励むことはできないということのようだ。
朽ちないものへと復活させられるという希望を与えられているからこそ、神を愛し隣人を愛しなさい、自分を献げなさい、それが神があなたがたを招いている生きる道だ、と言われているようだ。
正直
と、分かったようなことを言いつつ、でも正直言って、朽ちないものに復活するなんて言われても、自分自身が本当にそうなるのかおぼろである。パウロはどうしてこうも確信を持って語れるのか、半ば羨ましい気持ちである。死んだ後どうなるかなんてそんなにはっきりとわかるわけでもないだろうに、なんて思う。
35-36節に、しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。と書かれている。この愚かな人とは俺のことだなと思っている。
15:12でも「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」なんて言っている。どういうわけですかなんて言われても、本当かいな、もう一度生き返るなんてと思う。よく分からんし、分からんことを信じろと言われてもなあと思う。
前進
福音書を見るとイエスは元の体を持って生き返って弟子たちに現れたようなことが書いてある。そんな風に復活というのはもう一度生き返る、死ぬ前と同じように生き返ることのように思っていた。キリストが復活するというのも、もう一度前の姿に生き返ることかと思っていた。だからこそそんなことあるんだろうか、やっぱりそれはないよなと思っていた。
でもここでパウロは、復活とは元の命というか元の身体に甦るのではないと言っているみたいだ。種の話にたとえて、自然の命の体に蒔かれて霊の体に復活すると言っている。
復活とは生き返るということで、なんとなく戻ってくるようなイメージを持っていた。イエスの復活とは、イエスが元の体でまたこの世に戻ってくる、バックしてくるようなイメージがあった。だからそんなことあるのんだろうかと思っていた。でも復活とはバックではなくて飽くまでも前進なんだという気がしてきた。朽ちないものに復活する、輝かしいものに復活する、霊の体に復活する、天に属する者として復活する、とパウロは言っている。それは止まった心臓がもう一度動き出して生き返るということではないみたいだ。新しい自分に生き返る、どうやらそれが復活ということのようだ。復活は元に戻るバックじゃなくて前進なんだという気がした。死を突き抜けて前進する、それが復活ということなのかなという気がしている。
イエスはその初穂として復活した、私たちもやがてイエスと同じようにやがて復活する、そのことを踏まえて生きていこうということだろう。死は待っているし恐怖である。でも死の向こうにある復活があるんだから、死の向こうも神の支配の下にあるんだから、しっかりと前を向いて生きていこうと言っているようだ。