礼拝メッセージより
神がかり?
僕が物心ついた頃には家にテレビがあったような気がする。その時のテレビは白黒テレビで、小学校の3、4年位だったかな、カラーテレビがやってきたという記憶がある。それ以来ずっとテレビっ子だった。
子どもの頃はテレビで言っていることは全部正しいことだと思っていた。ノストラダムスの大予言とか、空飛ぶ円盤とか、そういうのを見ると本当にそうなんだと思っていた。そんなことを親に話しても、そんなことはないと言う返事をしてて、テレビで言ってるのにどうして信じないのかと不思議に思っていた。そう言えば何かの本で見たピラミッドパワーとかいうものにも惹かれていた。ピラミッドの形をしたものの中に入れておくと物が腐りにくいとか剃刀の寿命が延びるなんていう話しだった。そんな目に見えない不思議なもの、神秘的なことに興味と憧れがあった。
教会に行くようになって、いつだったか覚えていないけれど異言というものがあると知った。異言を語る人がいる、というのを知って何だかすごく興味を覚えた。そんな神懸かり的な不思議なものにすごく憧れた。
先週も話したけれど、神学校に行っている時に異言で祈るなんて人もいたし、異言を語るという講師の集会にも行ったこともある。異言を語るようになりたい人のために祈りますと言われて、頭だったかな手を置いて祈ってもらったこともあった。けれど異言は語れなかった。
人に威張りたいとか、かっこよく見られたいなんていう不純な動機で求めてるからできないのかと思ったりもしたけれど、それも賜物ならそれを誰に与えるのかは神が決めることなんだろうから、こっちの願いどおりになるわけではないのだろうと思うことにした。でもほしいおもちゃを貰えなかったような気持ちでもあった。
集会
パウロはコリントの教会で分裂があるということで、それを聞いた上でこの手紙を書いている。そして手紙の少し前の所では、主の晩餐を一緒に食べるべき時に、金持ちが先に飲み食いして後から来る貧しい人たちのことを配慮していないというようなことを語っていた。
そして今日の所では異言について語っている。どうやらコリントの教会の中で異言を語る者と語らない者との分裂が起きていたようだ。異言を語る者こそが優れた信仰者と、自分達異言を語る者は特別に神に選ばれた者だというような思いを持ち、異言を語らない人達を見下すようなことがあったようだ。
異言とはなんなのだろうか。今日はペンテコステで、ペンテコステとは50番目という意味のギリシャ語の言葉で、イースターから50日目にあたり、使徒言行録によるとイエスを見捨てて逃げていた弟子たちが聖霊に満たされて、知らないはずの外国語を話しはじめ、イエスが救い主であると宣教し始めた日ということになっている。
その自分の知らない外国語を話すというのも異言ということらしいけれど、このコリントの手紙に出てくる異言は、解釈できる人以外には誰にも分からない言葉、自分を造り上げるけれども教会を造り上げない言葉、空に向かって語るような言葉、理解できない外国語のようなもの、とかなり否定的な言い方をしている。
異言を神が語らせているのかもしれないけれど、他の者には全くわからないことだ。ただぶつぶつ何か意味不明なことを言っている変な奴にしか見えない。だからパウロは教会の集会ではそれを解釈しなさい、解釈する人がいなければ黙っていなさいという。
つまり異言を語るにしても、それを周りの者にわかるように伝えなさい、周りの者にそれを届けなさい、それが出来ないならば語ってはいけない、と言っているわけだ。異言を語ることで、語る本人が嬉しくて満足していたとしても、誰にもそれが伝わらなければ、それは単なる自己満足でしかないということなんだろう。
で、結局異言ってのは何なのか、やっぱりよく分からない。インターネットを見ると異言こそ聖霊のバプテスマを受けた証拠だというようなことを言う人もいるし、異言は良いものですと淡々と何回も語っている説教もあった。逆に異言は群集心理で起きるものとか、異言を指導する者の語り口を真似しているようなもの、催眠術にかかりやすい人ほど語りやすいとか、世界中のいろんな宗教に異言があるとも書いてあった。
やっぱりよく分からんけれど、異言が聖霊の働きだというのは違うんじゃないのかなというのが正直な気持ちだ。
届く言葉
パウロは異言よりも預言の方が大事だという。預言とは神から預かった言葉ということになると思うけれど、要するに相手に分かる言葉、相手に通じる言葉、相手に届く言葉ということだろう。
パウロは19節で、他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります、と言っている。
コリントの教会の集会は誰かが異言を語ったり、他の人に啓示があるとその人が語り、あるいはまた他の人が預言を語り、かなり熱気に溢れた、熱狂的な集会だったんじゃないかと思う。神がかり的な集会だったのかもしれない。そして異言を語る人たちにとってはとても誇らしい楽しい集会だったのだろうと思う。でも、そこに初めて来た人にとっては意味のわからない、何か怪しいものに熱狂しているような、陶酔しているような、近寄りがたい、そして何より何を言ってるのかも分からない、怪しい集会になってしまっていたのだろうと思う。
パウロは自分だけが満足すること、自分たちだけが満たされること、そして自分達こそ優れているというか、自分達には聖霊の働きがある、自分達の方が神に近いとか神を分かっている、あいつらとは違うんだと思うような差別意識を持つこと対して、それではいけないと言っているようだ。
異言を語る自体は否定している訳ではないけれども、教会で、集会でそれを意味もわからず自慢げに語ってもそれは何の意味もない、ただ五月蠅く却って新しい人たちに不信感を与えるだけ、そして教会の分裂につながるだけだと言っている。
異言を語るか語らないかが問題ではなく、周りの人たちのことを考えているかどうかと問いかけているのだろう。隣人のことを省みることをしないで自分の満足を求めているだけではないのかと問いかけているのだろう。
そして初めてくるような人たちに分かる言葉を語りなさい、初めて来る人にも届く言葉を語りなさい、そう言っているようだ。
うちの教会では異言を聞くことはない。聞いたことはない。じゃあ新しい人達に届く言葉を語っているかと聞かれると心許ない。
牧師の妻をしているある人の話しを聞いたことがある。その人の子どもが交通事故で亡くなったそうだ。葬儀の時だったかな、その牧師の妻はみんなの前で感謝です、と言ったそうだ。でも後で一人になった時に泣いていたそうだ。
その感謝です、は正直な気持ちなんだろうか。全てのことを感謝すること、それは信仰的なことなのかもしれないけれど、なんだか信仰的なことを言わないといけないという思いから無理矢理語っているような気がする。感謝です、と言うのは信仰的な言葉かもしれないけれど、僕にとっては意味不明言葉に聞こえてきて、心に響かないというか、きれいごとじゃないのかと思えてしまう。
神さま、どうしてこんなことになったのか、なんでこんなことを許すのですか、それが正直な気持ちじゃないのかと思う。そして正直な気持ちこそ相手にとどくのではないかと思う。
愛はあるか
綺麗事ではなく、あるいはただの信仰的な言葉を使うのではなく、正直な気持ちを語る、教会でこそ、教会の集まりでこそ相手に届く言葉を語ることが大事なんだということを教えられているのではないかと思う。
そしてそこに愛があるかどうか、それが一番の問題なんだと思う。この手紙の13章でパウロは、たとえ異言を語ったとしても愛がなければただの騒音でしかないと語っていた。そして14章でも愛を追い求めなさいと語っている。
異言を語れるかどうか、それが聖霊の働きかどうか、それが問題ではなく、そこに愛があるかどうか、それこそが一番の問題だと言っている。
愛があれば、相手に対する思いがあれば、意味の分からない言葉や通じない言葉を語りかけるなんてこともしないだろうし、ただの綺麗事なんて言ってられないだろうなと思う。
そこに愛があるかどうか、それこそが一番の問題なのだとパウロは語る。だから愛を追い求めなさい、パウロはそのことばっかり語っているような気もする。