礼拝メッセージより
みんな満足
登校拒否をした後にまた高校に行くようになって、その時に手話の講習会に行った。たまたま新聞で見て面白そうだったし、周りの誰もできないことが出来たら自慢できるという気持ちもあった。その関係で何かの集まりのボランティアに行ったことがあった。ちょっと手伝うことしかできなかったけれど、最初の頃はボランティアという立場にいることがただただ嬉しい気持ちだった。でも暫くして、ボランティアとはいうけれど自分が喜んでいたんじゃいけないんじゃないかなんていう気がしてきた。自分のためではなく純粋に相手にためにすることこそ本当のボランティアだというようなことを聞いたせいかもしれないけれど、そんな純粋な気持ちになれない自分はボランティア失格だなという気になってきたことがあった。
でもその後いろんな人の声も聞いたりいろいろ考えたりしているうちに、自分がどう考えるているか、自分の気持ちが純粋かどうかなんとことよりも、相手のためになっているかどうか、相手の役に立っているかどうか、そっちの方がよっぽど問題じゃないかという気になってきた。ボランティアは自己満足のためじゃないという言い方をする人もいると思うけれど、自己満足でいいんじゃないかと思う。誰かの役に立つことができて、誰かが喜んでくれる、そのことが自分も嬉しい自分の満足でもある、そういう意味での自己満足のためでもあるという気持ちをもってボランティアをすればいいんじゃないかと思っている。
愛がない
この手紙に異言のことがよく出てくる。コリントの教会では異言を語ることを殊更に持ち上げるようなところがあったようだ。教会の中で仲間割れがあったようだが、その一つが下人が異言だったようだ。異言を語れる自分は優れた信仰者だとして異言を語らない人達を見下していたんじゃないかと想像する。
異言とは人に分からない言葉で神に語りかけることらしい。異言で祈るととてもいいらしい。らしい、というのは僕は異言は喋れない。神学生の時に異言を語るという人の集会に参加したことがあって、異言を語れるように祈って欲しい人はということで祈って貰ったことがある。でも何も語れるようにはならなかった。やっぱり信仰心が足りないと異言を語ることはできないのかなとか、語れるようになったら自慢できるなんて気持ちがあるからできないのかなとか思ったりしたけれど未だに語れない。コリントの教会でも異言を語る者が自慢げに語っていたんじゃないかなという気がする。それに対してパウロは、そこに愛がなければ何の意味もない、愛がなければただうるさいだけ、ただの騒音だ、と言うのだ。
そして異言だけではなく、いろんな賜物について、賜物とは神からの賜った物、それぞれに与えられた才能だけれども、自分はこんな才能を持っているということを自慢して誇りに思って、他の人達を見下していたんだろうと思う。
パウロはそんなコリントの人達に対して、あなたがたに最高の道を教えます、と言って愛の話しをする。最高の道を教えますと言うのは、一番大事なことを教えますということだと思う。そしてその一番大事な愛について話し始める。あんたたちはその一番大事なことが分かっていないんだよ、と言っているような気がする。
持てない
私たちも自分が何を持っているか、ということについては熱心になることが多いのではないか。こんなに財産を持っている、こんなに地位を持っているなんてことや、学歴、知識、名誉、才能、技術、果てはこんなにいい家族を持っている、こんなに信仰を持っているなんてこともあるように思う。良い物を持つことは結構なことだけれど、そのことを威張りたくなるのが私たちの常だ。
自分の歴史や信仰までも自慢の種になってしまうことさえある。苦しいことに直面していて、今こんなに大変なんだということを分かって欲しくて話しをした時に、それを聞いてた人が私はもっと苦労してきた、こんなに頑張ってきた、苦しい時でも祈って耐えてきた、なんて言われて、話しを聞いて欲しかったのに、自分の大変さを分かって欲しかったのに、逆に自慢話を聞かされたなんてこともよくある。そうすると、あなたはまだまだ甘いと言われたみたいになって余計苦しくなってしまったりする。
兎に角、私はいろんなものを持つことを目指す傾向にあるのではないかと思う。あれもこれもいっぱい持つことを目指して、良い物をいっぱい持つことが幸せなことだという風に考えがちなのではないかと思う。
でも愛というのは持てないものなのではないかと思う。自分の中に持っている間は愛ではないような気がする。パウロはここで愛とはこういうものだといろいろと書いているけれど、基本的に相手が必要なことばかりだと思う。
愛は自分が持っているだけでは愛とは言えないで、誰かに与えることで初めて愛と言えるのじゃないかと思う。誰かを大切にする思い、誰かを大切にする行為、愛とはそういうものだろうと思う。だから愛には相手が必要なのだ。自分を愛するというのもあるけれど、自分という相手を大切にする、と無理矢理解釈すると、愛とはやっぱり相手が必要で、その相手に思いや行為を与えていくこと何ではないかと思う。
私たちは持つことを目指すことが多いけれど、でも愛は反対に与えていくことなんだと思う。
求めよ
パウロは愛を熱心に求めなさい、と言っている。愛が賜物ならば求めるものである。もともと人間にはないものということになる。元々ないものを持つためにはどこかから手に入れねばならない。そしてそれは神から貰わねばならないものらしい。
神から貰わないといけないということは、愛は自分の中に自然に発生するものではない、ということである。
だから愛とはただ人を好きだとかいう感情ではないのだろう。感情だとするとそれはいつなくなってもおかしくはない。いつまでも残るものでもない。
では神から貰うとはどういうことか。愛を品物のように貰う訳にはいかない。愛は自分が愛されること、愛されていることを知るところに生まれるものだろうと思う。つまり神に愛されていることを知ることで自分の中に愛が生まれる。神から愛を貰うとは神から愛されていることを知ることではないか。
神からどれほど愛されているかを私たちはもっともっと知る必要があるのかもしれない。
神に愛されている、というところが一番大事なのだろう。
共に喜ぶ
イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコによる福音書12:31)と言った。またパウロはローマの信徒への手紙12:15で、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と言っている。
隣人を自分のように愛するということは、一緒に喜び一緒に泣くことじゃないかと思う。そういう繋がりを持つこと、それが教会にとって一番大事なことだ。
自分がどれほどもものを持っているか、自分に何が出来るのか、誰もがそのことをとても気にしているのではないか。けれども一番大事なものはそんな、個人個人が何を持っているかとか、何が出来るかというような、一人の人の中にあるものではなく、人と人との間にあるものなのではないかと思う。
そしてそこに愛がある時、それは相手にとっても喜びであり、自分にとっても喜びであるのだと思う。