礼拝メッセージより
正直?
少し前テレビを見ていたらTEDという、大勢の会衆の前で一人の人が講演をするという番組をしていた。丁度最終回だと言っていた。その時は二人の人の話しがあったけれど、その内に一人の人が、「聞きたくなるような話し方」という講演をしていて、あわてて録画した。
先ず人が聞きたくない話しとして7種類あると言っていた。それは悪口、判断、否定的、愚痴、言い訳、誇張、独断の七つ。
そして聞きたい話しとして4つあると言っていた。それは、正直、素の自分あるいはありのままの自分であること、誠実であること、愛の4つ。
正直さは迷惑なこともある、例えば「あなたは今朝はとても不細工だね」なんてことは求められていない。正直さには愛が必要、愛があれば批評したり批判したりしないだろう、そんなことを言っていた。
本当のことを語ることが大事、嘘をついてはいけないというのは基本的には正しいのだろうけれど、そこに愛がなければただ相手を傷つけてしまうだけということにもなりかねない。
自由?
今日の聖書は偶像に供えられた肉についての話しだが、コリントの教会の中で食べていいのか悪いのかということが問題になっていたということなんだろう。コリントはギリシャにある貿易港で各地から人がやってきて、いろんな宗教が入り乱れていたらしい。そして動物を殺して供え物とすることも多くて、その肉を引き取って市場で売りに出されるというようなこともあったようだ。
その肉を食べてもいいのか悪いのか、そんなことがコリントの教会の中でも問題になっていたようだ。弱い者はその肉を食べることをためらい、強い者は食べていたようだ。そして強い者は弱い者のことを、そんなことを気にするようではまだまだ信仰が浅いとか、理解が足りないとか、真理が分かっていないとか、そんな風に言って見下していたんじゃないかなと想像する。
パウロは、そもそも偶像の神というのは存在しないのだから、その偶像に供えた肉だからといってもどうかなるものでもない、それを食べたからどうかなるというものではない、という自分の考えを述べる。
しかしそこまで割り切れない人もいるんだ、とパウロは告げる。弱い人は今までなじんできた習慣にとらわれて、偶像に供えられた肉だということで良心が弱いために汚されると言う。
また、知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのをだれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようになってしまうかもしれない、そうすると弱い人が滅びてしまう、なんてことも言う。
同調圧力?
偶像に供えられた肉を食べると汚されるとか、滅びるというのはどういうことなんだろうか。信仰の強い者から、偶像なんてそもそもないんだから気にする方が間違っている、そんなことを気にして食べないなんてのは間違っている、なんてことを言われることで、わだかまりを持ったまま、あるいは無理して食べることは汚されることと等しいということだろうか。納得しないうちに食べさせるようなことをしているとすればそれは相手を滅ぼしているに等しいということなんだろうか。
ちょっと極端な言い方をしているような気もするけれど、自分の正しさを主張することで、相手に自分と同じことを要求するような圧力をかけてしまうようなことになっているとしたら、それはとても危険なことであるとパウロは感じているような気がする。
愛はあるか
「理屈は一番低い真理です。」(八木重吉)という言葉がある。私たちは自由にされている、何を食べてもいい、偶像なんてないんだから関係ない、それは真理だろう、その理屈は全く正しいことだろう。
しかし理屈にあっているからそれが一番の真理とは限らない。いやむしろそれは一番低い真理なのだろう。
本当のことを主張することがいつも正しいとは限らない。あなたは今朝は不細工ですね、と言うことと同じことだ。TEDで言っていたように、愛が必要だ。
そこに愛があるのかどうか、パウロはそう問いかけているようだ。
結局は1節にある、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」というのがパウロが言いたい結論なんだろうなと思う。
知識があることは勿論すばらしいことなんだろうけれど、もしそこに愛がなければ何の意味もない、何の役にも立たない、むしろ人を高ぶらせるものでしかなくなると言っているようだ。
パウロはこの手紙の初めの方でコリントの教会の中で仲たがいしていることを書いているけれど、その原因も結局は愛がないことだと言いたいのかなと思う。
神についてキリストについて聖書について、いろんな知識をすることも大事なんだろうけれど、実はそれよりも愛を持つことの方がよほど大切なことだということなんだろうなと思う。神のことも聖書のこともよく分からなくてもいいのかもしれない。それよりも神に愛されていることを知ることこそ大切なんだろうなと思う。
それは親子の関係に似ていると思う。子どもは親がどんな親でどんな生き方をしていたかなんていうような親について知ることが大切なことではない。そんなことよりも親から愛されたことを知ること、愛を受けること、それこそが大切なことだ。
神に愛され神から愛をもらうこと、それこそが教会にとって一番大切なことなんだろうと思う。そしてその愛をもって生きること、それこそが一番大事なことだ、とパウロは告げているのだろう。
あなたは神に愛されている、あなたはその愛を受け取っているか、そこに愛はあるか、と問われているようだ。