礼拝メッセージより
召し
神に召されたときの身分のままで歩みなさい、ということで割礼についてと奴隷について書かれている。
割礼
割礼を受けている者が召されたのなら割礼の跡を無くそうとしてはいけない、割礼を受けていない者が召されたのなら割礼を受けようとしてはいけない、とパウロは言う。
割礼とは男性器の包皮の一部を切除する儀式で、ユダヤ人たちは割礼を受けるということを大切にしていて、割礼を受けることが神とのつながりを持つ第一歩というか大前提というように思っていたようだ。割礼を受けることでまともな人間となる、そしてユダヤ人となるということだったらしい。
パウロ自身もユダヤ人なので当然割礼を受けていたはずだ。そのパウロが割礼が問題ではない、受けていても受けていなくても関係ない、というところがすごい。割礼問題は聖書の中に度々登場するように、大きな問題だったようだ。
割礼を受けているということが神との繋がりを持っているという証拠、神の民の一員となっているという証拠、しかもそれが身体に刻みつけられている目に見える証拠でもあったのだろう。教会で言えばバプテスマを受けたということと似ているのだと思う。それが問題ではないと言われることは、そう簡単に受け入れられることではなかったのだろう。
ユダヤ人でキリスト者となった人たちの中に、やっぱり割礼を受けないといけないということを主張した人たちがいたらしいけれど、それほどに割礼を大事にしてきたということでもあるんだろう。パウロもきっと大事に思ってきたんだろうけれど、でもパウロにとってはそんなことは全く問題ではないと言っているようだ。彼は何かをつかんだのではないかと思う。それまで大事にしてきたものを放り出しても構わないと思える何かをつかんだから、そんなものはどうでもいいと言うようになったのだろう。
奴隷
そしてもう一つ奴隷の話が出てくる。召された時に奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません、自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい、と言う。気にしてはいけません、と言われても奴隷として苦労しているならば気にしないわけにはいかないんじゃないかと思うけど。
この21節の「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」と訳されている言葉は直訳すると「もし、自由の身になれる時は、むしろ使いなさい、あるいはむしろ用いなさい」となっているそうだ。自由になれるんだったらその機会を使って自由になりなさい、という意味にも取れるみたいで、そのように訳している聖書もある。口語訳も「しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」と訳している。でも新共同訳は、それを使いなさいというのを奴隷という身分を使いなさい、という風に解釈してそのままでいなさい、と訳している。まるで反対に訳されていて、いったいどっちなんだと思ってしまう。
実はパウロは、自由になれるときに自由になれとか、そんな時にも奴隷のままでいろとかいうことを言ってはいないような気もする。「むしろ用いなさい」というのはこの世の立場や状況がどうあろうとも、神の召しを大事にしなさい、神に召された者として生きなさい、そして神に召された者となったという事実を用いて、誰に対しても愛を持って接しなさいと言われているのだろうと思う。
この世の目に見える身分というか状態というか、それは奴隷であったり自由人であったりする訳だけれど、そんな目に見える身分とか状態とかそういうものを越えて私たちはキリストの奴隷とされているのだと言っているようだ。キリストの奴隷と言っているけれど、それは主によって自由の身にされた者とも書かれている。自由の身にされた者を奴隷だというのも面白い言い方だなと思うけれど、要するにキリストのものとされた、キリストの民の一員とされているということだろう。
そのままでいい
割礼に関して、割礼の跡を無くそうとしてはいけないと言った。また受けていない者が受けようとしてもいけないとも言った。無くそうということは自分の過去を消そうとするということかなと思う。自分の失敗や間違いを消そうとすることでもあるように思う。そんなことはしなくても良いというなんだろうと思う。反対に割礼を受けないといけないと思うということは、何か自分に足りないことがあるからそれをしとかないと、と思っているということではないかと思う。
キリストは私たちをただただそのままに召されているのだとパウロはいいたいのではないかと思う。これまでの間違いや失敗を抱えたままの私たちを、あれもこれも足りてないんじゃないか、大事なものが全然足りてないんじゃないかと思っている私たちを、そのままに召してくれているのだと言っているような気がする。
またいろんなしがらみの中で生きている者も、奴隷の者も、いろんな不条理を背負わされている中で、そこから抜け出す知恵も力もなくてその不条理やしがらみの中に生きるしかない、そんな自分の人生を投げるしかないような私たちも、キリストはそのままに召してくれていると言っているのではないかと思う。
私たちはいろんな身分やいろんな立場いろんな状態を抱えていきている。会社員だったり学生だったり主婦だったり、子であったり親であったり、あるいは病気であったり休職中だったり、そんな言わば目に見えるいろんな立場や身分を抱えつつ生きている。聖書の時代には奴隷とか自由人というようなものもあったようだ。
苦しいこともいっぱいあるだろう、辛いこともいっぱいあるだろう、そんな自分の境遇を嘆くこともいっぱいあるだろう。そんな境遇から抜け出す力のない自分を嘆くこともあるかもしれない。
そんないろんな立場や身分の上に、それとは別に私たちは新たなキリストの民という立場を与えられているということだ。キリストの民として召されるという新たな身分を与えられているのだ。そのことを大事にしなさい、目に見えるこの世の立場や身分や自分の状態だけに目を向けるのではなく、それに捕らわれるのではなく、目には見えないけれどキリストの民とされている、そのことに目をむけなさい、そのことを大事にしなさい、と言っているように思う。
そのままのあなたがキリストのものとされているのだ、だからそのままで、間違いも失敗も弱さも、そしていろんなしがらみも持ったままでいい、変われないなら変われなくてもいい、今この自分が神の民にされていることを大事にしなさい、そうパウロは言っているような気がしている。