礼拝メッセージより
乳飲み子
3章1-3節では、「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人びとに対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えませんでした。固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいるということになりはしませんか。」なんてことが書かれている。
パウロは乳飲み子に対するように話したとか、今でも固い物を口にすることができないなんてことを言っている。でもその割にはこの手紙自体そうそうすんなり食べることもできない、分かり辛いなあと思う。展開が早すぎるというか、いろんな話しが次々と出てきてすごく見えづらいという気がする。乳飲み子に分かるような手紙にしてくれたら良かったのと思っている。
土台
今日の箇所では、パウロは自分がイエス・キリストという土台を据えたけれど、その上にどんな家を建てるのかが問題だという話しをしているような気がする。どういう素材で家を建てるのか、その仕事はかの日に明らかになる、かの日に吟味される、かの日が火と共に現れ吟味するなんて話しになっていく。かの日というのは終末のことなんだろうか、イエス・キリストがまた来ると言われるときのことなんだろうか。そして土台の上に建てた仕事が残れば報いを受けるが燃え尽きると損害を受ける、でもその人は火の中をくぐり抜けて来た者のように救われるなんて一体何を言ってるんだろうかと思う。
かと思うと今度は、あなたがたは自分達の内に神の霊が住んでいる神の神殿なんだ、なんて話しになる。
僕には展開が早すぎて全然付いていけないという気がしている。一体何を言いたいんだろうかという気がしている。乳飲み子にもわかるような仕方で話しをしてくれと言いたい気分だ。
ただ一つ分かったことは、イエス・キリストという土台の他に土台を据えてはいけないということ、他の土台の上に家を建ててはいけないということ、教会はイエス・キリストという土台の上にしっかりと立っていないといけないということを言いたいんだろうなということだ。
そしてそのイエス・キリストは十字架につけられたままのイエスであるということをパウロは繰り返し語っているようだ。
教員養成セミナー
先日インターネットで、『月刊教員養成セミナー』と本に載っている、熊本大学教育学部准教授の苫野一徳という人の話しを見つけた。
■ 下痢、便所飯、躁ウツ……
「何のために生きているんだろう」「なぜ生まれてきたんだろう」「なぜ死ぬんだろう」…小学校1年生の頃から、私はそんなことを本気で悩み考えていた“ 哲学的” な少年でした。昔気質な、時に庭で試し斬りをするような日本刀の鑑定士の父と、「流行には乗るな」「人と同じことは絶対するな」という、おかしな教育方針を徹底した母のもとに生まれ育った私は、まったくこの両親のおかげで、幼い頃から深い悩みを抱えていたのです。
そんなわけで、私は小学生の頃から、流行のマンガやアニメやゲームなどにはまったく興味がわかず、手塚治虫の『火の鳥』と『ブッダ』を片手に、「生きるとは何なのか」という話ばかり周囲に吹っかけて、だから当然友達もできず……というか離れていって、孤独な少年時代を過ごしました。もっとも、子どもながらにプライドはあったので、傍目には友達がいるフリはしていましたが、内心では、話の合う友達がいないことに長らくずっと悩んでいたのでした。
おかげで、物心ついた頃には過敏性腸症候群という病気にかかり、以来30 年近く苦しめられることになりました。緊張すると下痢になる、一種の神経症です。ほとんど何でもないことに緊張して、突然下痢になるのです。バスに乗れば、下痢になる。スーパーに行っても、下痢になる。電話が鳴っても、下痢になる。「トイレに行けない」と少しでも思えば、とりあえず必ず下痢になる。もちろん学校は地獄でした。教室はただただ腹痛に耐えるだけの場所でした。だからよくをお尻に消しゴム突っ込んでいました。
中学2年では「便所飯」を始めました。ご飯をいっしょに食べる友達がいないのが恥ずかしいので、トイレで弁当を食べるというやつです。今になってようやく「便所飯」が問題になって騒がれていますが、実は私こそ便所飯のパイオニアなのです。
挙げ句の果てに、17歳の頃から8年間、躁ウツにも苦しめられることになりました。毎年ほぼ正確に、春にウツになり、秋に躁になるのです。躁状態の時は万能感に溢れて色んなことをやらかしましたが、ウツの時は毎日死ぬことばかり考えていて、とにかく多くの人に多大な迷惑をかけました。
と、しかしそんな生きづらい人生は、その後哲学に出会ったことでほぼ克服されることになりました。なぜ、そしてどのようにして哲学で乗り越えることができたのか、ということについては、『子どもの頃から哲学者』という本に詳しく書いたことがありますので、ご興味のある方にお読みいただけるととても嬉しく思います。
■ 恩師、山口先生の言葉
そんなわけで、私にとって学校は居心地のいい場所ではありませんでした。みんなが「同じ」でなければならないコミュニティ。異質であることが笑われ排除されるコミュニティ。そんな学校という場所が、どうしても好きにはなれませんでした。
でも、学校の先生には本当に運よく恵まれました。もしこの上、先生にまでつらい思いをさせられていたら、きっと学校に行くことはなくなっていただろうと思います。
小学校5、6年生の時の担任だった山口貴司先生には、私が人間関係で一番苦しんでいた時期に支えていただきました。救われた、と言ってもいいでしょう。
ある時、先生に提出する日記に、私はこんなことを書いたのです。
「僕は流行のマンガにもアニメにも興味がないし、何よりゲームに興味がない。だからみんなの輪に入っていけない、友達がいない。それがとてもつらい」
山口先生は、この私の告白を真正面から受け止めてくださいました。そして、私が書いた文章の何倍もの返事を、その日記に書いて返してくれたのです。
それでいい、何も恥じることはないし、きっとそのうち、みんなも分かってくれる時が来る。そんなことが、書かれてありました。涙が出て仕方ありませんでした。「それでいい。そのままでいい」。人間関係に悩んでいた少年にとって、それ以上に嬉しい言葉はなかっただろうと思います。
昨年出した『問い続ける教師』という本に、このエピソードについて書きました。そして、小学校卒業以来一度もお会いすることのなかった山口先生にお送りしました。自分がどれだけあの言葉に救われたか、その感謝とお礼の言葉を手紙にしたためて。
ところが、山口先生からのお返事はありませんでした。
年が明けて、山口先生が亡くなっていたことを知りました。私がお手紙をお送りした、その直前のことでした。59 歳という若さでした。
後悔の念に駆られて仕方ありません。もっと早く、先生にお礼を言うべきだった。
■ それでいい、そのままでいい
そうか、つまり山口先生が担任をしてくださったのは、今の自分より若い時だったんだなぁ。そんなことを、ちょうど考えながら思い出にふけっていた時でした。私のFacebookで山口先生が亡くなったのを知り、それで先の『問い続ける教師』を読んでくれた当時のクラスメイトの女性が、こんなメールを送ってきてくれました。
実は自分も、休み時間のたびに友達グループで集まって、別にやりたくもないのに同じことをして、というのが嘘っぽくて、苦痛で、結局一人になることが多かったのだけど、そんな私に、山口先生はやっぱり気づいて、時折声をかけてくれてたんだよね。
山口先生は、やっぱりそういう先生だったんだなぁ。メールを読んで、そう思いました。
「子どもたちを変えたい」。そんな風に言う先生や教育学部の学生たちに、私はたくさん出会います。何となく傲慢さを感じて、あまり好きな言い方ではないのですが、まあそれはそれで別にいいでしょう。
でも、「変えたい」「成長させたい」とか言う前に、「それでいい。そのままでいい」と、子どもたちの全存在をまずはとことん受け止められるような、そんな先生にこそ、私はどうしても魅力を感じてしまいます。
山口先生は、やっぱりそういう先生だったんだなぁ。今、改めて、そんな風に考えています。
土台
それでいい、そのままでいい、イエスの言葉を真髄はそれじゃないかと思っている。お前はお前のままでいい、そのままのお前が大切なんだ、イエスは徹底してそう語り続けているように思う。
そしてそれこそが教会の土台なんだと思う。その上に教会は建っているのだと思う。教会は別の土台、そのままでは駄目だ、強くならないと立派にならないと駄目だというような土台の上に建ってはいけない、パウロはそう語っているのようだ。内部で分裂しているのは、ねたみや争いがあるのは、十字架につけられているイエス・キリストという土台ではない、別の土台の上に建っているからではないかと問われているのだろう。
周りを見て自分と比べては、これでは駄目だ、このままでは駄目だ、こんな自分では駄目だ、そんな気持ちになることも多い。そして自分で自分を責めたり、自分の気持ちを押し殺して無理して周りに合わそうとしたりする。でもそうすると疲れはてて苦しくなってしまう。結局自分のことを一番否定して苦しめているのは周りの状況というよりも自分自身じゃないかという気がしている。
しかしそんな私たちに向かってイエス・キリストは、それでいい、そのままでいい、と語り続けてくれている。その土台の上に私たちは立っている。この土台こそ私たちをしっかりと支えてくれる確かな土台なのだ、パウロはそう言っているのではないか。