礼拝メッセージより
コリントの信徒への手紙
パウロの手紙はなんだかよく分からないことも多い。真面目に全部理解しよう思うと余計に訳が分からないと思う時もある。パウロの手紙の中に、ここは自分が大きな文字で書いている、というような文章がある。どうやらパウロは視力があまりよくなかったみたいで手紙も自分が喋ったことを誰かに書いて貰っていたらしい。祈り会でパウロの手紙も毎週1章ずつ読んだことがあるけれど、喋ってることを書いているから余計に話しがちょっとそれたりするんだろうなと思った。そう言えばあのことも伝えなければ、このことも言っとかないと、なんてことになるから話しがあっちこっちに行っているんだろうなと思う。論文のように理路整然と書かれた物じゃないから、喋っているのを聞くようなつもりで読んだ方が却って分かりやすいような気がする。
コリントはギリシャのペロポネソス半島の付け根にある町。
コリントの教会はパウロの伝道によってつくられた教会だった。その後アポロが伝道したそうだが、1章10節以下の所に書いてあるように、教会の中でパウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派というような分派ができて対立するようになった。それを聞いたパウロは教会が一致するようになってほしいということからこの手紙を出したようだ。
十字架のイエス
パウロは内部で分裂しているコリントの教会に対して、先ずは自分が伝えたものは何だったのか、その核心を書いているようだ。それはキリスト、それも十字架につけられたキリストだった。それはユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの、とパウロ自身が言っている。
しかし「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」とも言う。十字架の言葉はとても納得しがたい、世の常識に反するようなことだ、けれど私たち救われる者には神の力だということだろう。
ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものだとかいているように、いかにも愚かなことに思える。キリストなんだから、いつも神々しく力強くあってほしい、そうであるはずだと思う。偉大な力を発揮して私たちをいろんな悪から守ってくれるのがキリストではないのかと思う。神を信じたらこんないいことがあります、こんなにお金持ちになれます、こんなに元気になれます、なんて言った方が宣伝になるだろうと思う。
弱さ
しかしパウロはコリントの信徒への手紙二13章4節でも「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」と言っている。
パウロは十字架のイエスとは弱さの極みなのだという。しかしその弱さが、実は神の力、神の知恵なのだと言う。だからパウロは2章2節で「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」なんてことも言っている。
また2章3節では、「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と言っている。ここの「わたしは」という言葉は、「わたしも」と訳せる言葉で、わたしもと訳した方がいいと神学部の先生が言っていた。私もまた、衰弱していて恐れていて不安だった。では誰と一緒なのかというと、その前からずっと書いている十字架につけれれたキリストと一緒だというのだ。衰弱していて恐れていて不安な十字架のイエスがいる、そしてコリントへ行ったときのわたしもそうだった、とパウロは言うのだ。
イエスは人びとを救うため、贖うためにこの道を邁進します、と言って力強く十字架についたのではなく、弱いまま十字架につけられたとパウロは言うのだ。そしてその十字架のキリストを、十字架の言葉をパウロは伝えたというのだ。イエスが弱さのゆえに十字架につけられた、しかしそのことが救われる者には神の力であるというのだ。
そこに救いがある。そこにこそ救いがあるとパウロは言う。人間の感覚からいくと納得いかないことかもしれない。しかし実は救いは十字架にしかない。十字架のイエスにしかない。弱さの中にこそ救いがある、パウロはそう言うのだ。
弱さの中に
人生は順調なことばかりではない。というよりも失敗と挫折の連続のような気がする。昔は、人生というのはうまく順調にやっていくのが普通というか本来の姿であって、どこかで失敗したり挫折したりするのは特別駄目な人間なのだと思っていた。自分は本来の道から落ちてしまった落ちこぼれなのだと思っていた。
けれど、最近では挫折も失敗もなく思い通りにいく人生の方が特別なんじゃないか、というかそんな人はいないんじゃないかと思うようになっている。
きっと誰もがいろんなことに失敗し、思い通りにならないことに直面し、これからどうなってしまうのかと不安を抱えているのではないか、あるいは自分の無能さや無力さや弱さを突きつけられてうろたえているのではないかと思う。
しかしそこに、私たちと同じように絶望し不安におののいているイエスがいる、恐怖に震えている私たちのすぐ隣に、ぶるぶる震えているイエスがいると言っているようだ。十字架の上で「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか」と絶叫したイエスが、そのままの姿でいてくれているということだ。
不思議に思うのは、パウロがここで復活のことに触れていないことだ。復活のイエスにこそ神の力が現れていると言われた方が分かりやすいような気がする。でもパウロは飽くまでも十字架につけられたイエスを宣べ伝えるんだ、十字架につけられたイエスこそ神の知恵だと言う。しかしこれは一体どういうことなんだろうか。
牧師であった夫が若年性のアルツハイマーになった人のことを思い出す。やさしかった夫が病気のために暴力を奮うまでになったそうだ。その奥さんは、イエスのその「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか」という言葉にすがりついていたと書いていた。自分のすぐ隣で、どうして私を見捨てたのかと絶叫するイエスがいた、そのことが彼女にとっての力になっていた、救いとなっていたようだ。
パウロは、あなたがたがが召された時のことを思い起こしてみなさいと言ったあとに、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました、また神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのですと言っている。
つまり神は無学な者、無力な者、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選んで教会に集められたということだ。私たちみんなそんな弱い者を集められているというのだ。
だから分裂して争うな、私たちの弱さに宿る十字架のイエスをしっかり見よと言っているようだ。
私たちの弱さの中に神の力が宿っているということなんだろうか。自分自身でも無くしたいと思う、恥ずかしい情けないと思う、そんな自分が一番嫌っている弱さの中に、実は十字架のイエスがいるということのようだ。実はそこに神の力が宿っているということのようだ。
よく分からないけれど、なんだかホッとするというかhotになるというか、心の中の冷たい部分から暖められているような気分になっている。