礼拝メッセージより
復活
今日の聖書はイエスが復活したというところだ。実はマルコによる福音書はもともとは今日のところで終わっていたそうだ。16章9節以下は後になって付け足したものだというのが通説になっている。
そうするとマルコによる福音書では、イエスの復活については、復活したというイエス自身は登場しないで、十字架で処刑されて死んだ後お墓に納めたはずの遺体がなくなっていた、ということが書かれているだけだ。他の福音書には復活のイエスがいろいろな形で登場するけれども、マルコによる福音書は新約聖書の四つの福音書の中では一番古くにまとめられたものだそうだが、そのマルコによる福音書に復活のイエスが登場しないというのは不思議だ。
イエスの復活とは何だったのか、どのような復活だったのか。そもそも復活なんてあるのかと思う。イエスの復活について、肉体を伴って生き返ったというようなことを言う人もいるし、肉体はなくて霊的なものだという人もいるし、あるいは幻だったんじゃないかと言う人もいる。福音書にも色々書いているし、聖書を読めば読むほど実はよくわからないということになりそうだ。
復活とは文字通りにとれば肉体が生き返る、止まった心臓がもう一度動き出すということを意味すると思う。聖書に復活したとか墓がからっぽだったと書いてあるんだから死んだ身体が生き返って歩いて出て行ったのかと思っていた。そんなことあるんだろうかとか、あるわけないと思うの普通なのかもしれないけれど、それを信じることこそ信仰なのだと思っていた。
ところがだいぶ前に、イースターの朝だったと思うけれど、たまたま車のラジオでイエス・キリストの復活の話しをしていた。どこかのキリスト教関係の大学の先生だったと思うけれど、イエスの復活について死んだ肉体が甦ったかどうかは置いておいて、私たちの心の中にイエスが甦ること、それはもうイエスの復活なのだ、というようなことを言っていた。
その頃は、肉体が甦ってこそ復活なので、それを置いておいては復活ではないじゃないかと思った。普通ありえないことを起こしてこそ神なのだ、というか神なんだから何でもできると思っていた。
でも最近は、そのラジオの先生が言っていることが本当なのではないかと思うようになってきた。
心
もう数年前になるけれど、テレビで東北の震災の話しをしていた。その中に津波で家族を亡くしたという人が出ていた。詳しいことは覚えていないけれど、津波がくるまで一緒にいたのに母親を波にさらわれてしまった人と、何かの都合で助けに行けなくて子どもを亡くした人の話しがあった。その人たちは家族を助けられなかった自分を責めて、その重荷にずっと苦しめられていたそうだ。
しかしひとりの人は、確か夢の中にいつもの穏やかな顔をした母親が出て来たという話しをしていた。子どもを亡くした人は、起きている時に部屋の中に子どもが現れてにっこり笑ったそうだ。多分幻なのだろうと思うけれど、その二人はそのことがあってからそれまでの重荷がずっと軽くなったと言っていた。正体が何だったのか、霊だったのか幻だったのか、そんなことは問題では無くて、心の中でその姿を目にしたことこそが大事だったわけだ。
イエスの復活もそれに似たようなことだったのではないかと思った。聖書には復活のイエスに出逢ったという話しが色々出てくる。でもそれはどれもとても個人的な内面的な出来事のようだ。誰もが見えるような、誰にも証明できるような、誰もがアッと驚くような一般大衆の目の前に現れるといういうような形ではなく、とても個人的な内面的な出会いであったようだ。
そして本当に大事なのは、物理的に生き返るかどうかというよりも、心で出会うかどうかなのだと思う。たとえ死人が生き返ったとしても、その人を見たとしても、心で出会わなければ、その出会いによって力付けられたり慰められたりすることがないならば、ただ不思議なことがあるもんだということで終わってしまう。心で出会うことこそが大事なのだ。
絶望
かつてイエスに従っていた弟子たちはイエスに期待をかけていた。イエスが世の中を変えてくれる、自分達の国を建て直してくれる、そう思って自分の人生をかけてついて行っていたようだ。命をかけてイエスについていくと思っていた者もいたようだ。しかしイエスは時の権力者に捕まり十字架で処刑されてしまった。自分の人生の師匠とあがめていた人が重罪人と同様に、十字架という惨めなむごたらしい方法で処刑されてしまった。しかも、何があってもどこまでもついていくと豪語していた弟子たちもみんな逃げてしまっていた。逃げるしかなかったんだろう。
弟子たちは従っていくべき師匠を悲惨な十字架で亡くしてしまい、進むべき道を見失っていた、またその師匠を見捨てた自分自身のだらしなさや不甲斐なさにも打ちのめされてもいのに違いないと思う。しかも処刑された犯罪人の弟子という汚名まで着せられることになり、共犯者としての危険もあるというような悲惨な状況だったのだろうと思う。ずっと先まで続いていると思っていた人生のレールが目の前で突然途切れて脱線して動けなくなってしまった、そんな状況に立たされていたのだろうと思う。
復活
しかし弟子たちはそんな絶望の中で、かつてのイエスの姿を思い出してきたんだろうと思う。
イエスは病気の者や罪人とされた者、汚れていると言われている者、そんな社会から見捨てられ除け者にされている者のところへ出かけていった。誰からも愛されていないと思っている人、自分には何の価値もないと思っている人、あるいは人生に挫折し失敗しうちのめされている、そんな人のところへ出掛けていき、あなたを愛している、あなたが大切なんだと伝え、絶望している人達に生きる力を与えてきた。
今日の聖書で女性達が墓の中で若者に会う。これは天使を意味しているのだろうけれど、この若者は女性たちに対して、ガリラヤでお目にかかれると弟子たちに伝えなさいと言っている。
ガリラヤとはイエスが弟子たちと出会った場所であり一緒に生きた場所である。かつてイエスの言葉を聞き、イエスの姿を見ていた場所だ。ガリラヤで会えるというのは、かつて聞いたイエスの言葉やイエスの姿を思い出すことで、イエスにまた会えるということを伝えているのだと思う。
イエスの十字架によって自分の進むべき道が突然閉ざされてしまったと思っていたであろう弟子たちは絶望の淵に立たされていたに違いない。しかし彼らはその絶望の中で、かつて聞いたイエスの言葉を聞き直し、かつて見たイエスの振る舞いを見つめ直したのだろうと思う。弟子たちはそうなって初めてイエスの本当の姿を発見したんだろうと思う。絶望しているからこそイエスの言葉の意味やすごさが身に染みて分かったんだろうと思う。それこそが復活のイエスとの出会いであり、そんな心の中でのイエスとの出会いによって弟子たちは生きる力、もう一度立ち上がる力を与えられた。それこそが聖書の伝えるイエスの復活の出来事なのだと思う。
先に召された方たちも、それぞれにいろんな苦しみを経験して生きてきたことだろう。そしてその中でイエスの言葉を聞いて力を与えられてきた、あるいは慰められてきたことだろう。聖書を通して、イエスの生き様を見て、イエスの言葉を聞いてきたことだろう。この方達もイエスと出会ったのだ。
弟子たちが思い出の中で復活のイエスと出会ったように、私たちは聖書を通してイエスと出会っている。このイエスの言葉は、先に召された方たちを力付けてきたように、私たちも力づけるものでもあると思う。イエスの言葉を聞くことは心の中でイエスと出会うことでもある。そして心でイエスと出会うならば、私たちがどこにいても、どんな時でも、いつまでもイエスと一緒にいるということだ。
そのイエスは見えないし、人に見せることも出来ない、しかしいつも一緒にいてくれる。お前の事が大切だ、お前はひとりぼっちじゃない、そう語りかけてくれている。先に召された方達が聞いてきたそんなイエスの声を、私たちも聞いていきたい。