礼拝メッセージより
十字架
処刑場にやってきた囚人たちは十字架に堅く縛られるか、あるいは手首を釘で打ちつけられたそうだ。そして囚人たちは十字架上で力尽きて死ぬまで苦しみ続ける。十字架刑は当時もっとも屈辱的な刑で、普通丸1日か、2日間苦しんでから死んだそうだ。死んだあとの死体も普通は野ざらしにされ、鳥やけものの餌にされていたらしい。
イエスは朝の9時に十字架につけられた。そして十字架につけられてからも、道行く人や祭司長、律法学者たちにあざけられた。「十字架から降りて来い、そうしたら信じてやろう」という風に。またイエスと共に十字架につけられた囚人からも罵られたと書かれている。
昼3時に息をひきとるまで6時間、十字架の上にいた。どんな痛みだったのか、どんな苦しみだったのか、想像するだけでも恐い。
そしてこの時、イエスの12弟子たちはもうそこにはいなかった。マルコ14章を見ると、イエスの弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ出してしまっている。後でこっそり追ってきたペトロも、まわりの者から問い詰められ、3度イエスを知らないと言う。一緒に行動をともにし、一緒に生活をしてきた12弟子はもうすでにいない。そこには遠くから見守っている女たちがいるだけだ。
イエスの最後の言葉は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」つまり、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」であったと記されている。他の福音書には十字架上でもっとかっこいいことを喋ったと書かれているが、マルコによる福音書にはこの言葉しか書かれていない。実際はマルコによる福音書が実像に近いのではないかと思う。人々に完全に見捨てられ、そして神からも見捨てられた、その様な状況にイエスは立たされたのだ。
神の子
31節には「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」と言った人がいたと聖書は語っている。こういうときこそ、奇跡をおこして、十字架からスーパーマンのように下りてくる、それこそがキリストである。私たちもそんな風にしばしば思うのではないか。
イエスは様々な奇跡と言われるようなことをやってきたと書かれている。なのにこの時は奇跡と言われるようなことは何も起こしていない。起こせなかったんだろうか。それとも起こせたけれど敢えて起こさなかったのか。
ところがこのイエスの姿を見て、この人こそ神の子だという人がいた。39節『百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。』百人隊長とは読んで字の如く、100人程の部隊の長で、イエスを処刑を担当したローマ帝国の兵隊であり、ユダヤ人から見ると異邦人ということになる。
この人は大声を出して絶叫して死んでいったイエスを見て、この人は神の子だったと言ったというのだ。弟子から見捨てられ、周りの者たちからも馬鹿にされ、孤独に苦しみ、痛みに苦しみ、絶叫して死んでいったイエスを目の当たりにして、本当にこの人は神の子だ、と告白している。
何でそんなこと言ったんだろうか。なぜそんな風に思ったんだろうか。福音書には書かれていないしよくわからない。
38節には『すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。』と書かれているが、神殿の垂れ幕が処刑場から見えるわけでもないので、それで神の子だと分かったわけでもないだろう。
埋葬
もう一人、イエスの死に様に神を感じた人が登場する。
42節からのところにイエスの埋葬の話しが出てくる。アリマタヤ出身で身分の高い議員のヨセフがイエスを埋葬した。14章53節以下の所に、イエスがピラトの所へ連れて行かれる前に、ユダヤ教の最高法院で裁判を受けたことが書かれている。そこには「一同は、死刑にすべきだと決議した」と書かれていて、その最高法院の議員の一人だったと思われるので、ヨセフもその時には死刑に賛成していたんだろうと思う。
そんな議員が罪人に関わるというのはそうとう異例のことだそうだ。勇気を出してピラトのところへ行ってイエスの遺体を引き取ったと書いてあるように、相当の覚悟がないと出来ないようなことだったようだ。
ヨセフがどうしてそんなことをしたのかという理由も福音書には書かれていないけれど、そこまでしてイエスを埋葬しようとしたということは、ヨセフもイエスの死に様に何かを感じた、恐らく百人隊長と同じように神を感じたんだろうと思う。
しかしその日は安息日の前の準備の日、しかも夕方近くになっていて、日が沈むと安息日が始まってしまうということで、遺体を綺麗にして香油を塗る時間もなくて、ただ亜麻布にだけくるんで埋葬したようだ。
かつてイエスが、安息日に片手の萎えた人を癒して、安息日に律法で許されているのは善を行うことか悪を行うことか、なんて言ったことがあったけれど、相変わらず律法の縛りによって自分の埋葬の準備をしっかりしてもらえなかったというのは何だか皮肉な感じがする。
死に様
十字架のイエスには私たちがしばしば思い描く神々しい神のしるしといったものは何もない。全能の神の姿は何もないように思う。
そもそも神とはいったい何なのか、神とはどういうものなのか。いろいろなイメージ、人それぞれに持っているだろう。すごい奇跡をおこす力を持ち、光輝く姿で悪者を懲らしめ世の中の不正を正していく、そしていつもどこか高いところから、私たちを見ている、それが神のあるべき姿、だれもがそんな神のイメージを持っているのではないか。でもそんなイメージにはとても似つかわしくない姿がここにある。私たちの期待に答えるような姿は十字架の上にはない。イエスは絶望の声を上げて息を引き取った。まさに敗北の死の有様といった感じがする。
しかし百人隊長は、そのイエスの姿に神を見ている。いわゆる神々しいしるしを見たからではなく、絶叫して死んでいった有り様を見てイエスが神の子であることが分かったようだ。どうしてそんなことがわかったのか、それは分からない。それを感じ取ったと言ったほうがいいのかもしれない。
ヨセフもこのイエスの姿に神を感じとったのだろうと思う。
いつまでも、どこまでも
彼らが感じた神は、高い高い所から人間を見下ろしている神ではない。また人間の都合のいいように、人間の願いを何でも叶えてくれるような神でもない。
一見弱い無力な神である。しかしどこまでも私たちと一緒にいる神だ。
イエスは私たちの所まで来てくれた。同じ高さに立ってくれた。そして苦しみをも味わってくれた。私たちと同じ苦しみを、それ以上の十字架の苦しみを味わってくれた。人に捨てられ、神にも捨てられ、完全に孤独な状況に立ってくれた。最後まで弱い人間として、私たちと同じ弱い者として、苦しみの中にいてくれた。最後まで私たちと同じ所にいてくれた。絶叫するしかないような所まできてくれた。
それは、私たちが苦難に遭い、失敗し、落ち込み、人にも見捨てられ、神などいないと叫ぶとき、しかしそこにもイエスはいてくれているということを表している。私たちが「神よどうして私を見捨てるのか」と叫ぶ時、そこにこそイエスはいてくれているのだ。そんな人生のどん底にもイエスは一緒にいてくれている。それこそが私たちにとっての救いなのだと思う。
私たちの神は、私たちが神を見上げ賛美し感謝する時に一緒にいてくれるだけではなく、私たちが失敗し挫折し落ち込み無力になる時も、祈っても叶わず神も信じられないと思うような時にも、祈る事もできず神を呪うような時でさえ共にいてくれる、そんな時にこそ共にいてくれる、そんな神なのだ。
私たちの神はどんな時にも見捨てたりしない。人が皆見捨てても、神などいないと言ったときでも見捨てない。私たちの嘆きを、私たちの叫びを聞いてくれている。そして一緒に嘆き、一緒に苦しみ、一緒に悲しみ、一緒に泣いてくれている。イエスの姿を通して、百人隊長もヨセフもそんなことを感じとったのではないかと想像する。
私たちがどん底に落ち込みただ下を向くしかないような時、その下から私たちを支えてくれる、そういう仕方で私たちの神はたちのそばにいてくれる、いつまでもどこまでも共にいてくれるのだと思う。イエスはそのことを私たちに身をもって知らせてくれたのではないかと思う。