礼拝メッセージより
週末
この前の金曜日に世界祈祷日の礼拝があって説教の当番がまわってきた。先週は週末が2回もあったみたいで、ちょっと大袈裟だけど死にそうだ。ただ不信仰だからかもしれないけれど、聖書からメッセージがすぐにわいてくればいいんだけど、年を追う毎に何を言いたいんだろうかと悩むことが増えてきているような気がして大変だ。
律法学者
ということでダビデの子についての話しもなんだかよく分からない。
律法学者達が「メシアはダビデの子だ」と言っていることに対してイエスは『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』とダビデの詩と言われる詩編110:1を引用して、ダビデがメシアを主と呼んでいるのにどうしてメシアがダビデの子なのかと言った。
「主は、わたしの主にお告げになった」と言うのは誰が誰に言ったんだろうという気がする。聖書教育には、最初の「主」は神のことで、「わたしの主」はメシアのことだと書いてあった。分かりにくい言い回しだなあ。
しかしそもそもメシアがダビデの子だというのはどういうことなんだろうか。どうしてイエスはそのことに異議を唱えているんだろうか。マタイによる福音書の最初には系図が出てきて、イエスはアブラハムから続くダビデの家系に生まれたと書いてあるし、一応ダビデの子孫ということになっているんだからダビデの子だというのもあながち間違ってはいないという気もする。
あるいはメシアはダビデのようなただの人間なのではない、王として強い力を持って周りを従わせるのではないということを言いたいのだろうか。それだとしても、この詩編を引用してメシアはダビデの子だというのはおかしいというのはなんだかピンとこない。ただ揚げ足をとっているような気がする。
しかしそれに続く律法学者に対する言葉はとても納得する。長い衣を着て広場で挨拶されて上席や上座に座り長い祈りをすることを好むと言われている。見せかけの長い祈りと言っているけれど、服も挨拶も座る場所もみんな見せかけ、周りからどう見られるかばかり気にしている、周りからよく見られるようにとしているということだろう。でもこれはまるで自分のことを言われているような気がする。どうしても周りの目が気になるよなあ。だいたいいつも周りから格好良く見られたいという気持ちがある。僕も人一倍厳しい裁きう受けることになるんだろうか。
そして律法学者に対してイエスが語ったもう一つのことが、やもめの家を食い物にしているということだ。具体的にどういうことなんだろうか。夫を亡くした未亡人の弱みにつけこんで、報酬をもらうために必要以上に世話をしていた、なんてことがあったのだろうか。
やもめ
律法学者のはなしに続いてやもめが登場する。賽銭箱とは神殿の中の婦人の庭というところに、御羊の角で作られてラッパの形をしていたものが13個備えてあったそうだ。
その賽銭箱に貧しいやもめがやってきてレプトン銅貨2枚を入れた。イエスは弟子たちを呼び寄せて、この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた、自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからだと言った。
レプトン銅貨というのは一番小さなお金だと書いてどこかにあったと思うけれど、一日分の賃金である1デナリオンの128分の1になるそうで、今だと大体50円位になるそうだ。つまり50円玉2枚を献金したということになるようだ。
イエスは、50円玉2枚だったけれどそれが彼女の生活費全部だったから誰よりもたくさんだと言ったというわけだ。50円でも2枚あるんだからせめて1枚にだけにしとけばいいのに2枚とも献金したということだ。
イエスは生活費全部を献金することがすばらしいことだと言いたかったんだろうか。この貧しいやもめのように全部献げることはすばらしいことだ、そんな信仰をイエスは喜ばれる、皆さんもいっぱい献げましょう、と教会としては言いたくなりそうな話しだなと思う。
でも生活費全部献金したら、この人はこの後どうするんだろうか。生活費と言うのは何日分なのか分からないけれど、一日分かもしれないけれど、それにしても一日分全部献金したらその日は一日何も食べないで過ごすということなんだろうか。全部献金したからといって、そのご褒美に豪華な食事が空から降ってくるわけではないだろう。きっと腹ぺこな一日を過ごすのだ。そんなゲスなことばっかり考えてしまうのは僕自身がゲスの極みだからなんだろうなと思う。
なにもかも
やっぱり生活費全部を献金するなんてことは、かなり異常なことなんだろうと思う。物事を冷静に考える余裕もないような状態だったんじゃないかと思う。今日一日食べれないなんてことさえも考える余裕もなかったんじゃないかと思う。自分の行動が周りにどう見られるかと冷静に判断している律法学者とは対極にあるようだ。周りの人の目を気にする余裕もきっとなかったんじゃないかなと思う。
それこそ彼女は献金と自分を全部賽銭箱に入れたんじゃないかと思う。礼拝の献金の祈りで、「この献金と共に自分自身を献げます」と祈っているけれど、まさに彼女は自分自身を、自分の生活もお金も、そして苦しみとか嘆きとか、そんなものも全部ひっくるめてなにもかも賽銭箱に投げ入れたんじゃないかなと思う。一緒にレプトンを1枚だけじゃなく2枚献金したのは、そんな思いがあったからなんじゃないかと思う。彼女は生活費も全部献金して、そして自分自身も全部献げたんじゃないか、彼女の人生をなにもかも献げたんじゃないか、だからレプトンを1枚残す必要も感じてなかったんじゃないかと思う。
だからイエスは、誰よりもたくさん入れたと言ったんじゃないかなと思う。
イエスは彼女のことを全面的に認め、彼女のなにもかも受け止めているということなんではないかと思う。そして彼女の異常な行動を賞賛しているのだと思う。
イエスは私たちのなにもかもを受け止めようとしている、受け止めたいと思っているということなんじゃないだろうか。私たちの苦しみも悲しみも嘆きも、そして失敗も挫折も絶望も、なにもかもひっくるめて、私たちの全てを受け止めたい、全部持って来て欲しい、そう思っているということなんじゃないだろうか。