礼拝メッセージより
連れて来た
耳が聞こえず、うまく話せない人、ということはろうあ者ってことだろう。
聾唖者はコミュニケーションの障害者だと言われる。情報が入ってこない障害。つまりうわさも耳に入ってこない。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」という言葉がある。耳の聞こえる人は他の人と音で会話するだけじゃなくて、テレビでもラジオでも耳からいろいろな情報を仕入れているし、それ以外でももいろんな音を耳から聞いて情報を得ている。耳の聞こえる人にとってはそれがごく当たり前で、そうやっていろんなことを知ってきた。でも聾唖者にとってはそれができない。自然と耳に入ってくる、ということがない。
耳が聞こえる人は周りの人のしゃべりを聞いてそれを真似をすることで言葉や話し方を覚えていくわけで、聞こえない人は声の出し方を教えてもらっても、真似をする相手の言葉も聞こえないし、自分のしゃべっている音がどのような音なのかも聞こえない、だからしゃべることはとても難しいそうだ。
今日の聖書の人は耳が聞こえず舌が回らない、と書かれている。舌が回らないということはうまく話せないということだろう。だとするときっと生まれながらに聞こえなかった人だったのだろう。
そうするとこの人はイエスの噂もあまり知らなかったのではないかと思う。あるいは誰かから手話などで教えてもらっていたかもしれないが、うわさ話が耳に入るなんてことはないので情報量はずっと少なかっただろうと思う。
手を置いて
おそらくそういうこともあって、この人は自分からイエスのところに来たのではない。人々が「連れて来」たのだ。まわりの者が連れてきて、まわりの者がこの人に手を置いてやっていただきたいとイエスに願い出た。
人びとはどうして癒してくれと言わずに手を置いてくれと言ったのだろうか。手を置いてくれというのは癒してくれという意味なんだろうか。
深い息
イエスはこの人だけを群集の中から連れ出した。イエスは自分の業を見世物にすることを嫌ったのかもしれないが、それよりもこの耳の聞こえない人と一対一で正面から向き合いたかったということなんじゃないかと思う。
イエスはこの人の両方の耳に指を差し入れて、それから唾をつけてその舌に触れられた。まるで魔術師か呪術師のような仕草である。この間イエスは無言のままである。そして天を仰いで深く息をついた。口語訳ではため息をついたと訳している。この深い息、ため息はなんなのか。どうしてため息をつく必要があるのか。
イエスにはこの人の耳と口を開く力があってそして実際に開いたと書いてある。でもその、開け、という前に大きな息をため息をついた。もし自分の力を見せつけたかったらため息などつかないだろう。
このため息、深い息はどういう意味だったのだろう。みんなに連れ回されてイエスのもとに連れてこられたこの耳の聞こえない人の有り様を嘆いてのことのなのか。
そもそも人々がこの人を連れてきたのはどうしてなのか。純粋に好意からなのか、この人のためを思ってか。それとも奇跡を見てみたいから、イエスがどんな風に癒すのかを見てみたいから連れてきたのだろうか。
この耳の聞こえない人にとっては自分から主体的に生きるすべはこの時代にはなかったのだろう。耳が聞こえないというハンデを背負って、いつも耳の聞こえない○○さん、神に見捨てられたかわいそうな人と見られていたのではないかと思う。あるいは世話をしてあげないといけない面倒な人という見方をされていたのかもしれない。
そんな苦しい境遇に対して、またそういう風にしかこの人を見ていない群衆や社会を嘆いてのため息だったのかもしれない。
嘆き
人間を人間として大事にしない社会を何時もイエスは嘆いていた。神の名において人を差別することに対しては断固として反対してきた。
イエスのため息は、耳が聞こえない人をだしにして癒してみろというような、そして聞こえない人たちを一人前の人間と認めないような人たちや社会に対するため息だったのではないかと思う。
しかしこの人のいやしはこのため息から始まった。
イエスは、本当にこいつに奇跡を起こせるのかと人々が興味本位な目で見つめるようなところでも癒しを行ってきた。安息日の律法を破ってまで人を癒すのかと挑発されるような時にも癒してきた。
周りの群衆がそんないろいろな思いで見つめる中で、しかしイエスは病気の者、苦しんでいる者、疎外されている者を見つめている。そして奇跡を行ってきているようだ。そんな時に奇跡を起こしたらやり玉にあげられると思うような時でも、そんな時にいやしたら命を狙われるかもしれないと思うような時でも、イエスはそんなことよりもただ目の前の苦しむ者を見つめている。その苦しみを見つめて、苦しみから解放するために、そして社会から疎外されないようにするため、福音書を見るとそんな時にしか奇跡を行っていないような気がする。
向き合う
イエスのいやしのわざは人々が連れてきた人と出会うということから始まった。今日の箇所では誰かの信仰の故にこれを行ったとは書かれていない。信仰などというものとはまるで関係のないところでイエスは自分の業を行った。純粋に信じたからその信仰の代償として癒やしたわけではない。あるいは一所懸命に祈ったからそのご褒美として、癒しや奇跡があったわけではない。
ただイエスと出会い、イエスが憐れむところに奇跡が起こった、癒しがあった。イエスがため息をつき涙を流した、そこに奇跡が起こった。
「最も効果的ないやしのセラピーは、友情と愛である。」
(ヒューバート・H・ハンフリー/第38代アメリカ副大統領)
耳が聞こえなかった人にとって、何よりも嬉しかったのはイエスが自分に向き合ってくれたこと、耳の聞こえない自分にしっかり向き合ってくれる方がいることを知ったことだったんじゃないかという気がする。ひとりの大事な人間として自分と向き合ってくれ、自分の苦しい境遇を嘆きため息をついてくれたこと、そこでこの人は癒されていったのではないかと思う。案外それは耳が聞こえるようになったことよりも嬉しいことだったんじゃないかという気がしている。
私たちの現実もため息をつくようなことがいっぱいだ。いろんな苦しみにため息を付き、苦しみを前にして自分の無力さにさらにため息をつく。
しかし私たちはそんな時でも決して一人ぼっちではない。私たちがため息をつく時、そこでイエスも一緒にため息をついているに違いない。
ため息をつく私たちと一緒にため息をつき、嘆く私たちと一緒に嘆き、なく私たちと一緒に泣いてくれているに違いない。そんな風にしてイエスは今も私たちと向かい合わせにいてくれ、そして開けと言ってくれている、祈ってくれているに違いないと思う。
きっとそこで私たちは癒されるのだ。イエスの愛によって癒されるのだ。そこにはきっと新しい道が見えてくるに違いない。