礼拝メッセージより
ゲラサ
4章の最後の所で、イエスが向こう岸に渡ろうと行って舟に乗って出掛けてた途中で嵐にあって溺れそうになったということが書かれている。
その目的地である向こう岸が今日のゲラサ人の土地のようだ。ここはガリラヤ湖の南東の湖畔でデカポリスという地方だそうだ。そこはユダヤ人が汚れているとして嫌っている豚を飼っているように、異邦人の土地だそうだ。つまりここに出てくる悪霊に取りつかれたという人も、周りの人達もみんな異邦人と思われる。イエスはそこへ敢えて向かったということだ。
悪霊
イエスがそこに着くと汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやってきたという。向こうの墓場は洞窟のようになっているところに遺体を置いていたそうで、この人もそういうところにいたのだろう。そして鎖はひきちぎり足枷も砕いたり、また叫んだり石で自分を打ちたたいたりしていたという。
そんな誰の手にも負えない状態にある人を、周りの人は汚れた霊に取りつかれていると考えていたようだ。その人がどうしてそんな風になっているのかは書いてないけれど、負いきれないような重荷を背負わされてしまうと、人間は誰でもそうなるのではないかと思う。
ハーモニー
時々話しをする、ハーモニーという韓国の女子刑務所で合唱団を作った映画の中に登場する一人の女性を思い出した。
その人は母親の再婚相手から乱暴されされそうになり、ベッドに押さえつけられるけれども、そのベッドに脇にあった人形のような形の鋳物の置物か何かを掴んで夢中で母親の再婚相手の頭に殴りつける。そうすると相手は一撃で倒れて大量の血が流れる。そこへ母親がやってきて呆然と立っている娘に対して『何てことをしたのか』と責める。そんな回想シーンがあった。
その人が映画の舞台となる刑務所にやってきて、主人公となる人と同じ部屋になるけれど、最初は反抗的な態度で嫌味なことを口にしてその主人公とすぐに喧嘩になって独房に入ることになる。その時に独房の壁に何度も頭をぶちつけて死にたいんだと口にする。それまで留置場でも何度か死のうとしたことがあったという刑務官の話しも出てくる。
襲われそうになったために仕方なく反抗した正当防衛なんじゃないかという気がする。あるいは過剰防衛だということになるのかもしれないけれど、何にしても相手を殺したというショックは少なからずあるんだろうなと思う。そして何よりもその時に母親から責められたということが大きかったのだろう。
また母親はその後何度も刑務所に面会にやってくるけれどもずっと会わないでいた。母親が謝罪に来ていることはきっとよく分かっていたと思う。そして自分自身でもその謝罪を受け入れたいという気持ちもいっぱいあったとは思うけれど、それと同時に事件の時に責められたという憎しみも辛さも手放せないという気持ちもあったんじゃないかと思う。いろんな気持ちが混じり合ってどうしていいか分からない、冷静に考えられるような状態でもないし人の忠告も聞けるような状態でもない、放っておいてくれというような気持ちだったんじゃないかなと思う。
あまりにも大きすぎる苦しみを抱えていてというか、背負わされているというか、自分ひとりではとても負いきれなくて、壁に頭を打ち付けるしかなかったんじゃないかと思う。まさに人生を捨てているような、この世に人生の置き場がないような状況だったのだろうと思う。
出会い
この墓に住む人もその人と似たような状況だったんじゃないかなという気がしている。負いきれない苦しみや悲しみを背負わされて普通に生活できるような状況ではなかったんじゃないだろうか。人生を捨てたような、いつ死んだって良いような気持ち、もうすでに死んでいるような気持ちでいたのかもしれない。だから墓場にいたんじゃないかと思う。
汚れた霊の名前はレギオンとなっている。レギオンとはローマ帝国の軍団のことだそうで、ひとつの軍団には4千人から6千人位いたそうだ。あるいはこの人はレギオンによって苦しい目に遭わされてしまったのかもしれない。
この人はイエスとの出会いによってレギオンから解放される。レギオンが豚に乗り移るというのはどういうことなのかよくわからない。ユダヤ人から見ると自分達を苦しめるローマ軍が汚れた豚に乗り移って湖で溺れ死ぬというのはとても痛快な物語なのだろうし、そんな逸話がこの物語に入り込んできたのかもしれない。
豚が死ねばレギオンも死ぬんだろか。悪霊はそんなことで死なないという気がするけれど。
兎に角この人はイエスと出会うことで正気を取り戻す。聖書では悪霊がいなくなったから正気になったと書いてあるけれど、やっぱりイエスと出会うことでこそ正気になったのではないかと思う。
先ほどの映画の中の人も、刑務所の中で色んな人と出会うことで癒されていった。実は歌を習っていてすごく上手なソプラノだったけれど、最初は唄うことも拒否していた。自分の才能も何もかも否定していた。でも刑務所で一緒につらい思いをしている人と過ごすことで自分の持っている才能も活かすことができるようになっていった。活かすというか普通に使うことができるようになっていった。だんだん正気になっていったという感じだった。
解放
私たちもレギオンに取り憑かれているんじゃないか、いろんなものに縛られているんじゃないかと思う。
ここはこうしなければいけない、とかいうよくわからないしきたりみたいなものもある。雪が降ろうが電車が止まろうが、何があっても会社は休んではいけない、兎に角休むのは悪いことだ、というような思いにも縛られているように思う。
でも一番大変なのは、自分は駄目だ、自分には価値がない、自分は大事に思われていない、誰からも相手にされていない、そんな思いが私たちを縛り苦しめているのではないかと思う。うまく行っている時は思わないけれど、失敗したり挫折したりしたときには途端にそんな思いが自分を苦しめる。ほら見ろ、やっぱりお前は駄目なんだ、お前はだらしがない、お前なんかいてもいてなくてもいいんだ、そんな声が私たちを苦しめる。そしてそんなことが重なると、自分なんていてもいなくてもいい、もうどうにでもなればなれ、生きていたって仕方ない、そんな気にもなってしまう。
しかしイエスはまさにそんな人に出会っていった。今日の所ではイエスはこの人に会うために向こう岸へ渡ろうと出掛けてきたようにも見える。そしてイエスとの出会いによってこの人は正気を取り戻した。
自分のことを見つめてくれる方がいる、自分に会いに来てくれる方がいる、自分を大切にしてくれる方がいる、そのことを知ることでこの人はレギオンから解放され、正気を取り戻したのだと思う。
イエスは私たちのところへも来てくれている。自分なんて何の価値もない、生きている意味もない、そんな思いに縛られて苦しんでいる私たちに、お前が大事だ、お前が大切だと言ってくれている。
私たちがその声を聞くことで私たちもレギオンから解放される。そして私たちは新しい命を与えられるようなものだ。
イエスは私たちにも新しい人生を始めよ、と言われているのかもしれない。新しい人生とは言っても、以前と同じ顔かたちをしていて、そして今までの過去を引き摺った人生であり、相変わらず失敗と挫折の人生であり、見た目は何も変わらない人生だろう。住んでいる家も家族も、まわりの境遇も何も変わらない人生だろう。
しかしイエスが受け止めてくれた人生だ、イエスが認めてくれた人生だ。それでいい、よくやっている、そのお前が大事だ、そう言われている人生だ。だからこそ新しい人生なのだ。
イエスは汚れた霊に取りつかれていた男に、家に帰りなさいと言った。新しい人生は環境の違う別の場所にあるのではない、あなた自身の中にあるのだ、と言われているような気がする。あなたが自分自身を、また自分の過去を認め、受け止める、そこに新しい人生があるのだと言われているような気がしている。
私はあなたが大事なのだ、あなたの全てが大切なのだ、あなたの過去も未来も大切なのだ、だからあなたも自分を大事に大切にしてほしい、そのことを忘れないでほしい、イエスはそう言われているのではないか。