礼拝メッセージより
舟
一体どれ位の大きさの舟だったんだろうか。きっと何十人も乗れるような大きな舟ではなかったんだろうと思う。福音書を見ると弟子たちの中には少なくとも4人は漁師がいたと書かれているそうなので、漁に使うような小さな木造の舟だったのかなと思う。
その舟が突風で波をかぶって水浸しになるほどだったとある。それなのにイエスは艫の方で寝ていたというのだ。よく寝ていられるよなと思うような状況だったのだろう。
風
昔四国の実家に帰るときは竹原に着くフェリーを使っていた。ある日晴れていたけれど風が強い日があった。フェリーの船長は欠航したいと言っている、というような話しも聞こえてきたがフェリー乗り場ではそこまでひどい風とも思えなかった。実際欠航することなくそのフェリーは出港した。
船に乗ってすぐにいつものようにうどんを注文して食べ始めた。大したことないじゃないかとその時は思っていた。しばらくするとフェリーは大きく揺れ始めた。それまでは半島の影になっていたので風も波も幾分弱かったのだ。乗用車を2,30台も載せるようなフェリーがまるで小さなモーターボートで波を切って走っているように揺れ始めた。丁度少し向こうにもう少し小さな一隻のフェリーが走っていたが、それはちょっと大げさに言えば波間に舞う木の葉のような感じがしてそれを見ることで余計に大変さが分かった。時折大きな揺れのときにはオオッー、という歓声とも悲鳴とも言うような声を出しては乗客同士顔を見合わせていた。15分程で島影に入ると揺れもすっかりおさまったが、それまではどうすることも出来ずに揺れがおさまるのを待つしかなかった。その間娘はそのあたりでうどんを食べ終えていた。
弟子たちはイエスを起こして「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったと書かれている。
昔これは、早く風と波を鎮めて下さいよということを言っているのかと思っていたけれど、よく見るとイエスが波を鎮めた後に弟子たちが恐れたということは弟子たちがイエスに鎮めて欲しいと願っている言葉ではないようだ。
だとするとこの言葉は、こんな時に寝てる場合じゃないでしょう、船がひっくり返ってみんな溺れても寝てるつもりですか、というような気持ちなんじゃないかなという気がしている。
信じない
その後イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言って風を鎮めて、弟子たちはびっくりして恐れたとある。弟子たちはイエスのことをそれほどの者とは思っていなかった。イエスの力を見せ付けられて恐れてしまった。この人はこんなにすごい人だったんだと驚いたということだ。
ある牧師がここで、弟子たちはイエスに文句を言う自由があったと言っている。イエスの側にそんな自由な発言をさせる力があったのだろう。信仰がないために文句を言いそして間違っていたら叱られる、そんな関係がイエスと弟子たちの関係だったと言っている。
『信仰がある時もない時もイエスに支えられてあることを信じることが信仰であろう。「ない」ときは、切り捨てられるのではなく、叱られるのである。「ない」ことをわきまえずに「文句」を言うところで、イエスとわたしたちとは結ばれている。そこに自由がある。イエスの与える自由がある。』(手さぐり聖書入門、清水恵三著)。
正しく理解して正しく信じる、それこそが本当の信仰だというような気持ちがある。聖書もただしく読まないといけないような気持ちがある。ありがたいお話しを黙って受け取らないといけないような気持ちがある。
そういう点では福音書の弟子たちはずっと自由だなと思う。自分の考えや気持ちを自由にイエスにぶつけているような気がする。間違って叱られるようなこともいっぱいあったみたいだけれど、そのありのままの気持ちをイエスにぶつける自由があったみたいだ。
イエスも間違う弟子たちを叱りつつ、でも決して見捨てることはない。間違ってばかりの弟子たちとイエスはずっと一緒にいる。同じようにイエスは私たちと共にいてくださる。
先ほどの牧師は、「驚き」や「恐れおののき」は分析するものではなく経験するものだと言っている。僕は分析ばかりしていて実際には驚いても恐れてもいないなあと思った。
私たちとイエスとの関係は、私たちの信仰の深さによって恵みが与えられるというような取り引きするような関係ではなく、私たちの信仰があってもなくてもどんな時にも私たちを見捨てない、そんなイエスとの関係を持つこと、それをイエスは望んでいる。
イエスは私たちにも。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われているのだろう。そう言われつつイエスの姿に、そしてイエスの言葉に驚き恐れていく。それが私たちとイエスとの関係でもあるのだろう。
きっとそこからイエスの本当の姿が少しずつ見えてくるのだろう。そこでまた新しい驚きを経験していきたいと思う。イエスってすごいなあと言いつつ過ごして生きたい。