礼拝メッセージより
安息日
今日の箇所は安息日の出来事だ。
創世記2章にあるように、神が天地を作ったときに7日目に休んだとある。そしてモーセの十戒には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日のあいだ働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」と出エジプト記20章に書いてある。
また出エジプト記の34:21にも、「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作のときにも、収穫のときにも、仕事をやめねばならない」と書いてある。さらに35:2は「六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる」とまで書いている。
こういう風に、安息日には休まにゃならん、労働をしてはいけないという決まりがあった。そういう律法があった。では何が労働に当たるのか、ということが問題になってくる。そこで律法の学者はこの安息日の律法を具体的に日常生活にあてはめるために39の規則を作り、さらにそのひとつひとつを6つの細則に分けていたそうだ。ということは全部で234の細則ということになる。
ハンカチを持って歩くのが労働になり、腕にまくのが労働ではない、というようなことを真面目に議論していたらしい。ちなみに今では、エレベーターのボタンを押すのは労働に入っているそうで、安息日にはエレベーターは自動的に全部の階に止まるようになっているそうだ。
金科玉条
ファイサイ派から見れば、イエスも弟子たちも安息日の律法を破る常習犯であった。今日の箇所のすぐ前の所にも、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことに対して、ファリサイ派の人達が噛み付いたことが書かれている。麦の穂を摘むということは労働になると考えられていたようで、それが律法違反に当たるということだった。そこではイエスは、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と答えている。
ファリサイ派にとって、安息日は喜ばしい日ではなかったようだ。ただ何もしない、何もしてはいけない日だった。これはいいか、あれはいいか、許されるか、律法違反ではないか、そんなことを一生懸命に考えて、いつもびくびくしている、そんなかなりしんどい一日だったらしい。234の細則に照らし合わせて許されていることであればしていいけれど、許されていないことはしてはいけないということだったようだ。
ファリサイ派は自分たちがそうやって異常なほどに神経質になっているだけではなく、同じことを回りの者にも押しつけていた。俺たちはこれほどやっているんだという誇りと、お前たちは何をやっているんだ、ちゃんとせんか、やっぱりお前たちは駄目だ、という人を裁く気持ちを持つようになる。人を裁き人の駄目さを指摘することで自分の正しさを証明していたと言ったほうがいいのかもしれない。でもそれは当然の成り行きだ。はじめに律法ありき、はじめに安息日ありき、律法を守ることが何よりも大切なことだったのだろう。
本来は律法を守ることが神に認められることであったのだと思うけれど、当時は社会の基盤がユダヤ教であったわけで、律法は社会の規範でもあったのだろうと思う。律法はほとんど法律でもあったのではないかと思う。つまり違反するものを社会の秩序を乱す者、犯罪者というような見方になっていたのではないかと思う。だからファリサイ派の人達はまるで犯罪者を取り締まろうとしている警察のようなことをしているみたいだ。
真髄
今日の所では安息日に片手の萎えた人が登場する。病気を癒すことが労働にあたるので安息日にしてはいけないことだったようだ。急がないと命の危険があるというような時には特別に許されていたそうだけれど、片手が萎えているということで命の危険があるわけではないようで、そういう人を癒すことは律法違反になると考えられていたようだ。
イエスがその人を癒すかどうかと注目しているファリサイ派の人達に対して、「安息日に律法で許されているのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と問いかけている。それに対してファリサイ派の人達は黙っていたと書かれている。
どうして黙っていたんだろうか。どっちが許されているかと聞かれたら善を行うこと、命を救うことに決まっているという気がする。なのにどうしてそう答えなかったのだろう。
実は彼らの律法に関する規則や細則にはその答えがなかったんじゃないかと思ったりしている。なかったというか書かれていなかったんじゃないかと思う。その規則や細則には多分具体的なことが書いてあったのだろうと思うけれど、善を行えとか悪を行えとか、あるいは命を救えとか殺せという言葉はなかったんじゃないかと思う。だから答えられなかったっんじゃないかなと言う気がしている。その律法の真髄というかそこに込められている思いは分かっていなかったんじゃないか、律法の字面だけしか知らなかったんじゃないか、だから答えられなかったんじゃないかなという気がしている。
しかしイエスの質問も極端だ。普通ならばというかこの状況にふさわしい質問としては、「安息日に許されているのは善を行うことか行わないことか、命を救うことか救わないことか」という質問だと思う。それなのに、善を行うことか悪を行うことか、命を救うことか殺すことか、どっちが許されているのか、というわけだ。
何でそんな風にいったんだろうか。
そもそもなぜイエスは安息日にそんなことをしたんだろうか。明日まで待っていやせばファリサイ派の人達だって文句のつけようもなかったし何の問題にもならなかっただろう。しかしイエスは敢えて安息日にこの人を癒した。
それは律法をひっくり返そうとしているということなんじゃないかと思う。正確にいうと律法に対する人びとの思いをひっくり返そうとしているということなんじゃないかと思う。律法によってあなたたちがやっていることは悪を行っている、殺している、イエスはそう言いたかったのかなと思う。だから安息日に律法で許されているのは善を行うことか悪を行うことか、命を救うことか殺すことかと質問したような気がしてきた。律法によって善を行うことも悪を行うこともできる、律法によって命を救うことも出来る殺すこともできる、あなたたちはどっちなんだと突きつけたんじゃないかな。
生き生きと
男だからこうしなさい、女だからこうしなさいとか常識という名前の束縛が私たちを結構縛り付けている。決まり切った型にはめ込めようとする。そして自分でもその型に嵌め込もうと苦心したり、嵌まらない自分を卑下したり裁いたりすることもある。
教会でもそうかもしれない。礼拝に来ないといけない、献金しないといけない、聖書読まないといけない、祈らないといけない、なんて案外私たちを縛り付けているんじゃないかと思う。しないといけないからするものでもないし、してるから自慢することでもないし、してないといって責めることでもない。
そんなことじゃないんだとイエスは言っているようだ。あなたたちを束縛するあらゆるものから解放したい、あなたたちを自由にしたい、そして生き生きと生きて欲しい、そう言っているような気がしている。
神を信じるということは、神の言葉、イエスの言葉を聞くことによって、あらゆる束縛から解放されて、生き生きと生きることだと思う。愛されていること、大切に思われていることを知って喜びと安心を持って生きることだと思う。そんな神の思い、イエスの思いを知るために礼拝に来て聖書を読み祈るのだ。