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礼拝メッセージより
「振り返るな」 2011年6月26日
聖書:創世記 19章14-26節
ロト
ロトはおじアブラハムと一緒に、神の与える約束の地を目指して旅に出た。ロトもアブラハムも多くの財産、家畜を持っていて、一緒にいるのは大変なので別れて住むことになり、ロトは豊かな地に見えた低地へやってきた。そこがソドムであったわけだ。しかしそのソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた、と書かれている。(13:13)
そして19章ではついにその罪の町ソドムに神の裁きが下ることになった。そのために御使いがやってきて、ロトに対して、この町を滅ぼしに来た、あなたの身内をみんな連れて逃げるようにと言われた。そこで嫁いだ娘たちの婿のところへ行って逃げるようにと行ったけれども、婿たちは冗談だと思ったと書かれている。
16節ではロトはためらっていたと書かれている。ロト自身もすぐに逃げないでいたようだが、天使に促されて妻と二人の娘と共に非難した。けれども妻は、振り返ってはいけないという天使の命令に背いて振り返ってしまったので塩の柱になってしまった、という話しだ。
ロトの妻
ソドムの町は、性的に乱れていたために神に滅ぼされることになった。しかしロトの家族にとってはそれでも大事な第二の故郷でもあったのだろう。
ロトは、叔父であるアブラハムと共に神の命ずる場所へと天幕生活をしながら行動を共にしていたことだろう。ロトの妻も、当然不便な生活を続けていたのだろう。そしてアブラハムから離れてヨルダン地方の風光明媚な豊かな土地であるソドムという場所に住む事となり、やっと落ち着いた生活ができるようになったのではないかと思う。
もともと財産にも恵まれていましたし、何人かの娘も嫁がせて、それなりに夫と娘二人の四人家族で、平穏な日々を過ごしていたのだろう。
突然そこから逃げるようにと言われたけれど、そして決して振り返るなと言われたけれど、やっぱり気になるし振り返ってしまっても不思議じゃないだろうと思う。
ソドムは今の死海のあたりにあったそうで、そこにはロトの妻といわれる岩塩の柱があるそうだ。インターネットを見てみると何カ所かあるみたいで、いかにも人が立っているように見えるような岩があるそうで、今では観光地になっているそうだ。この創世記の物語からそれらしい岩にロトの妻という名前をつけたのだろうと思うけれども、この物語には過去にとらわれるなと言う教訓があるのではないかと思う。
振り返るな
ある人が過去にとらわれるなと言う説教の中で、過去の失敗に、過去の栄光に、過去の屈辱に、過去の罪責感に、と書いていた。
過去の栄光にとらわれて、いつまでも栄光を夢見てばかりいるなんて人もいるみたいだけれど、栄光なんてのにはまるで縁のない自分にはよくわからない。
でも過去の失敗や罪責感にとらわれるという気持ちはとてもよく分かる気がする。
あの時ああすれば良かった、どうしてそうしなかったんだろうと思うことがいっぱいある。そう思うと苦しい気持ちになる。そんな思いにまさに捕らわれてしまい、がんじがらめにされたような気持ちになる。何をする力も無くしてしまう。自分で自分を責めて希望も何もなくなってしまう。
イエスの十字架の死によってすべては赦されている、と言われている。過去の失敗も屈辱も罪も、全ては赦されているのだろう。赦さないという人はいるかもしれない。しかし神は赦すと言われているのだ。
振り返るな、そんなに振り返らなくてもいい、過去に縛り付けられなくても良い、それよりも前を向いていけと神さまは言われているのではないか。
過去に縛り付けられて滅んでいくのではなく、前を向いて救われていくのか、どちらかを選ばないといけない、お前はどちらを選ぶのかと言われているのかもしれない。
津波
これを読んで今回の震災のことを思ってしまう。すぐに逃げないと助からないということもよく似ている。
今度の震災で「津波てんでんこ」という言葉あることを知った。津波の時にはてんでばらばらに逃げろというような意味なんだそうだ。家族のことが心配になって一緒に逃げようと思うけれども、そこで探し回っている内に助からなくなってしまうので、津波の時にはてんでばらばらに逃げろと言い伝えられているそうだ。それほどに急いで逃げないことには助からないという教訓が伝えられているようだ。
そして津波では何もかも流されてしまった人が大勢いる。それまで培ってきた財産も一気に流されてしまうという恐ろしいことが人生には起こりえるんだと思うとちょっとぞっとしてしまう。自分がそんな目にあったらどうなるだろうか。
なくしてしまった物にいつまでも捕らわれていては、いつまでも嘆くしかない。いつまでも自分の不運を嘆き、神を呪うばかりになってしまいそうだ。
津波のように一気になにもかもなくすことは私たちにはあまりないと思うけれど、少しずついろんなものをなくしていく、自分の大事に思っていた物を失っていく時、やはりそこに捕らわれていては前に進めなくなってしまう。若さもなくした、健康もなくしたと思ってなくした物ばかりを見つめていては前に進めない。
前進
それでもついつい振り返ってしまうのが私たちの常だ。けれども、過去の失敗や罪責感や、あるいはなくしたものに捕らわれている私たちに対して、それでも前を向きなさい、前を向いて進みなさい、私がそんなあなたと共にいるのだ、神さまはそう言われているのではないか。