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礼拝メッセージより
「砂上の楼閣」 2010年5月9日
聖書:マタイによる福音書 7章21-29節
会堂
今の会堂は岩の上に立っていない。会堂を建て替える時に地質調査を行った。
岩盤を支えとして支柱を立ててその上に会堂を建てられたらよかったけれども、結構な深さまで調べても岩盤に当たらなかったそうで、結局岩盤の上に建てられなかった。ということで今の会堂は岩の上に立っていない。その代わり、大きなドリルのようなもので土をかき回しながらコンクリートを流し込むような方法で5メートル位だったろうか、地中に何本ものコンクリートの支柱を作り、その上に基礎を作り、その上に今の会堂が建っている。
直接岩の上には立っていないけれど、それに代わる基盤の上にこの会堂は建っている。基礎のその下にそんな支柱があるなんてことは全然見えないけれど、一番大切なものは案外見えないものだ。
岩
イエスは、私のこれらの言葉を聞いて行うものは皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている、という。
岩の上に立てる人は賢い人なのだ。そりゃそうだ。
どうして賢い人なのか。それは雨が降り川があふれ風が吹いてその家を襲っても倒れなかった、からだ。
人生には雨が降り川があふれ風が吹く時がある、ということだろう。あるいはだいたいがそんな状態かもしれない。しかしそんな時にも岩の上の家は倒れなかった、とイエスは言う。
それに対してイエスの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ているという。その家は雨が降り川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった、と言うのだ。
土台がしっかりした岩であるか、それとも砂であるかによって嵐に耐えられるかどうかが違ってくる。そしてその違いは、イエスの言葉を聞いて行うのか、それとも聞くだけで行わないかという違いなのだ、というのだ。
立派な家
しかし人はそれほど土台のことを考えない。どうやって立派な家を建てるか、ということの方を重要視しているように思う。いかに見栄えのいい家を作るか、つまりどんなに見栄えのいい人生を作るかということのほうに目が向いている。
人から注目されたい、ちやほやされたい、すごいねえ、と言われたいと思う。立派になってと言われたい。どこにお勤めですかと聞かれても自慢できるような会社に入りたいと思う。
そのためには小さい頃から、それこそ幼稚園の時からいろいろな習い事をしなければ、なんてことになる。技術を身につけて、自分を磨いて磨いて、立派な人生を、立派な家を建てることに一生懸命だ。それも確かに問題ではある。どんな家を建てるかも確かに問題だ。
しかしそれよりもなによりもその家をどこに建てるか、どんな土台の上に建てるかのほうがよほど大問題なはずだ。土台がもろくてはどんなに立派な家もすぐに傾いてしまう。
イエスの言葉
イエスは、わたしの言葉を聞いて行うものは皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている、というのだ。
イエスの言葉を聞いて行うこと、それこそが私たちの確かな土台であるということだ。
今日の箇所は山上の説教の一番最後のところになる。ここで語られてきた言葉を行うことが大切なのだ。聞くだけでは駄目なようだ。
具体的には、腹を立てるな、姦淫するな、離縁するな、誓うな、復讐するな、敵を愛せ、施しは人に見せるな、くどくどと祈るな、断食は隠れてしろ、天に宝を積め、明日のことまで思い悩むな、人を裁くな、求めよ、狭い門から入れ、そんなことをイエスは語っている。
そのイエスの言葉を行う者は、岩の上に家を建てた賢い人に似ているということだ。
正直言ってなかなかできないなと思うことが多い。どうすりゃいいんだろう。こんなのできないよと思う。そしてできません、といって終わりってことが多いのかもしれない。
でもそれだとただ聞くだけで終わっているということになるのだろう。聞いていれば知識は増える。イエスがどんなことを言ったか、聖書にどんなことが書かれているかという知識は、聞いていれば増やすことはできる。知識は増えれば、あの言葉はどこにありましたか、なんて聞かれても、それはどこそこの何章何節にあります、なんてかっこよく答えることが出来る。そしたらなんだか出来る牧師になったような気にはなれる。
でもそんな知識はあったとしても、それを行うか行わないか、それはまるで別物なのだろう。山上の説教なんてのを読むと、出来ているか、出来ていないか、そんなことがとても気にはなる。出来ているかと聞かれたら、出来ているなんてとても言えないと思う。腹を立てているし、裁いているし、明日のことも明後日のこともいつも心配しているしと思う。
でも案外出来る出来ないという以前に、それをしようとしているのかどうかが問題なような気がする。腹を立てるなと言われて、そう言われているからそうしよう、と思っているのかどうか。実は思ってもいないような気がする。言われているからそうしようと思う以前に、そんなこと出来るわけないと言っているような気がする。それ以前に、そんなこと言ってましたね、で終わっているようなことも多いような気がする。
全然まじめに聞いてない、自分に対する言葉としてちゃんと聞いてないなという気がしている。
先ずはやろうと思うことが大事なんじゃないかと思う。出来る出来ないはその後の問題だ。イエスの言葉を聞いて行うことが岩の上に家を建てることになる、しっかりした土台の上に生きることになると教えられている。
しっかりした人生を生きたいときっと誰もが願っているだろうと思う。それを求めてみんな苦労しているような気がする。しっかりした支えを求めているのだと思う。そのためにどうすればいいのか、よくわからなくて不安になっているような気がする。
イエスは、わたしの言葉を聞いて行うこと、それが確かな支えなのだ、それが岩の上に自分の家を建てることだと言う。イエスが言うことは結構単純だ。
それはイエスの言葉に生きるということだ。自分の語られた言葉として聞いていくということだろう。教会で聞くだけで、教会を出たら忘れてしまうような言葉としてではなく、イエスはご立派な事を語りましたとただありがたい言葉としてではなく、私がしっかりと生きるために、幸せに生きるために、嵐の中でも生き延びるために、そのために実行しなさい、そのために私に向かって語られた言葉として聞いていくことが大切なのだと思う。
私達はそれを聞くだけなのか、それとも行うのか。