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礼拝メッセージより
「日毎の糧」 2009年2月8日
聖書:出エジプト記 16章1-21節
不平
いろいろな災いを経験し、ついにはエジプト中の初子が死ぬということになってやっとエジプトを出て行くことをファラオが認めた。そして遂にエジプトを出発したイスラエルの人たちだった。しかしファラオはまたイスラエルの人たちを出発させたことを後悔して、エジプト軍を率いて追いかけて来た。目の前には海があり、後からはエジプト軍が追いかけてくるという危機に直面したイスラエルの人たちは、こんなところで死ぬために俺たちを連れ出したのか、エジプトで奴隷をしいていた方がよかった、とモーセに詰め寄ったなんてことが書かれている。
そこで神は東風を吹かせて、海に乾いた土地が現れて、そこを渡ることでイスラエルの人たちは遂にエジプトから脱出して、エジプト軍の追ってからも逃れることができた。15章の前半には、私たちは神に助けられた、神はすばらしい、とみんなで賛美したことが書かれている。
その後彼らは、マラというところに来た時には、荒れ野を三日間進んだあとで喉が渇いていたのに、そこには苦い水しかなくて不平を言った。この時にはモーセが一本の木を長込むと甘くなった、なんてことも経験している。
その後、エリムという泉のある場所のほとりに宿営していたが、そこを出発し荒れ野に向かった。そして2月15日、エジプトを出発した時を1月1日にしたようなので、それから45日位経ったころということになるみたいだが、荒れ野で食べ物がなくてみんな腹が減って仕方なかったようだが、民はまたモーセに不平を言う。「エジプトで死んだ方がまだましだった。肉もパンもいっぱいあった。俺たちをこんなところで飢え死にさせるために連れ出したのか。」というようなことだった。
イスラエルの人たちは、命の危険が迫ったり、喉が渇いたり腹が減ったり、いろいろと切実な問題が迫ってきているが、その度に不平を言っているようだ。
応答
しかし神は彼らの不平を聞いてすぐに応えた。夕方になるとうずらが飛んできて、その肉を食べることができた。朝には、地表に薄くて壊れやすい霜のようなものがあり、それを食べることができた。イスラエルの人たちはそれをマナと名付けた。
マナはその日に必要な分だけを集めた。次の日まで残しておいてはいけないとモーセに言われていた。それでも残しておいた者がいたようで、次の日には虫が付いて臭くなった。しかし、安息日の前の日には安息日の分まで二日分を集めることができ、その時には次に日になっても臭くもならず虫もつかなかった。安息日には、つまり土曜日には労働をしなくてもいいように準備されていたということだ。何人かは安息日にもマナを集めにいったけれども見つからなかったことが書かれている。
マナとは何なのか。注解書によると、この地方ではあぶら虫の一種がギョリュウ科の低木の果実に穴を開け、その樹液を吸って、黄白色の薄片や球状の分泌物を排出する。温暖な日中の間は分解してしまうが、冷温の時には凝結する。甘みを含み、でんぷん質や糖分が豊富で、今でもシナイ半島のあたりの人たちはそれを集めてパンのように焼くそうだ。しかもそれをマナと呼んでいるそうだ。イスラエルの人たちが食べたマナもそれだったのではないかと言われている。
イスラエルの人たちはそうやって神に養われた。
イエスが言われた言葉を思い出した。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。」(マタイ6:26)
まるで空の鳥のように神はイスラエルを養ってくれたようだ。一日に必要な分を、時々二日分だが、その日に与えるという方法で与えた。次の日まで残しておいてはいけない、つまり蓄えてはいけない、と言われている。けれども必要なものを日毎に与えられるのであれば蓄える必要はなかった。日毎に与えられると思えれば、そうするという神の言葉を信じられれば、何も心配もなかっただろう。
でも心配してしまう。これは人間の性なんだろうか。イエスが空の鳥を見なさい、と言われた時も、だから思い悩むな、悩まなくてもいいんだ、ということで言われている。でも悩んでしまう。いっぱいある内に溜め込んでおこう。いっぱい溜め込んでおけば将来の心配もなくなる、それだけ心配も減ると思っている。だからこそできるかぎり貯めておかないと、と思う。
マナは次の日までもたなかったけれど、お金ならば虫が食うことも腐ることもないので貯めほうだいだ。お金がなくなればもう少しまともな社会になるんじゃないかと思ったりしている。お金じゃなくて大根や白菜を家中いっぱい貰っても食べきれないで腐るだけだから、そんなに欲しいとも思わないだろうし。
でも神は私が養うのだから、あなたの必要なものは私が与えるのだから心配するな、と言われている。だからあなたは私が与えるものを受けなさい、明日のことは心配しないで、今日の糧を受け取りなさい、と言われている。
自分は受けるばかりでいいのかという気にもなるほどだ。しかし実は私たちは食べ物を自分の力で作り出すこともできない。種を蒔いたり水をやって世話をしたりすることはある。けれどもそれで成長させるのは人間の力ではない。人間の手の中で食べ物を作り出すこともできないし、人間の力で成長させることもできない。
昔から不思議に思っている。畑に種を蒔くと、小さい種からどうして大きな野菜ができるのだろうかと。水を吸って光合成をして、なんていう科学的な反応があって大きくなるというのは頭では理解できても、種を蒔いたらそこから大きな葉っぱができてくるのがとても不思議だ。そしてそうやって成長したものを人間は食べて生きている。自分の知らないところで大きくなったものを食べて生きている。
出エジプトをしたイスラエルの人たちは、言わば直接的に神から与えられた食料を得て生かされていった。そして今の私たちも、自分たちはかなり間接的だけれども、神によって成長させられたもの、神に与えられたものを食べることで生きている。
主の祈りでは日毎の糧を今日も与えてください、と祈る。本当は今日もというところの、も、はないそうで、日毎の糧を今日与えてください、ということだそうだ。
イスラエルの民は、神の命令通り、その日一日分を集めなさいといわれている。今日神によって与えられた、明日も明日の分を与えられる、そんな神との繋がりを大事にして生きるように、神がその日その日の分を用意してくれるということ、神が自分たちのことを心配してくれている、だから私たちは明日のことを必要以上に心配するのではなくて、毎日の糧を与えられることを感謝して生きていくように、と言われているのではないか。
神がその日の分を与えられるということが信じられれば、とても楽になる。今日は大丈夫だったけれど、明日は大丈夫だろうか、と毎日毎日心配していたら大変なことだ。
実際は心配事がいっぱいある。山のようにある。心配に押しつぶされそうになるようなこともある。でも神さまは、大丈夫だ、そんなに心配しなさんな、必要なものは私が与えるから、私がいつもついているんだから、と言われているのではないか。
いろんなことを心配する、その合間にでも、あなたのことを私が心配しているんだから、あなたはそんなに心配しなさんなという、そんな神の声を聞いていけたらと思う。