前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
「ちょっと待った」 2008年12月7日
聖書:ルカによる福音書 1章26-38節
どうして
聖書の中にはしんどいことを背負わされた人間が出てくる。その一人がイエス・キリストの母となったマリアだ。マリアは「ナザレというガリラヤの町」に住んでいた。ここは田舎の町だったようだ。マリアは田舎の名もない少女だったようだ。
マリアはヨセフの許嫁であった。このヨセフはダビデの家系であった。ユダヤ人たちはキリストはダビデの家系に生まれると考えていた。しかしイエスはヨセフの子としてではなく、聖霊によってみごもったと聖書は記している。
天使ガブリエルがマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言う。マリアはこれを聞いて戸惑った。
いきなり天使が現れて、こんなこと言われても誰でもびっくりするだろう。
そこで天使は「恐れることはない」と告げる。そして「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」と告げる。
マリアは「どうしてそのようなことがありえましょう」と答える。うそでしょう、ちょっと待った、そんなことあるわけないでしょう、それにその子がいと高き方の子だなんて、わたしが神の子を産むなんて笑わさないでくれ、というところか。しかもまだ結婚していないのに、というところだったのだろう。
何が何だかまるで理解できない、というのがマリアの気持ちだったのではないかと思う。
何でも出来る
そんなマリアに天使は「神に出来ないことは何一つない」と答える。
神にはなんでもできる、神は全能だと聞くと、神は私の願いをなんでも叶えることができるのではないか、できるはずだ、そんな風に考えてしまう。もっと頭を良くして、もっと美人になって、もっと金持ちになって、まわりの人をもっといい人にしてくれて、憎らしい奴をやっつけてくれて、などなど。しかし神の全能とはそんなことではないらしい。私たちの思いどおりにすることが神の全能ではない。そうではなく、ガリラヤの一人の少女を選び神の子の母とするというような、人間ではとうてい考えられないような、人間の思いをはるかに超えた不思議なことをすること、それこそが神の全能の意味である。原文では「神にとっては全ての言葉は不可能なことはない」と書いているそうだ。神はその言葉を行えないことはない、神がそうしようと決めたことで出来ないことは何もない、ということのようだ。
つまり神が全能であるということは、神が神の願い通りにすることができる、神が最もいい、と思うことを行うことが出来るという意味であって、神が私たちの願いどおりにして何でもしてくれるという意味ではない。神にとっての最善は私たちが願い求めることとは必ずしも同じではないだろう。
重大事
そしてマリアにとって子を宿すということは自分の願いでも何でもない。それどころか大いに迷惑な話しだっただっただろう。独身の女性が妊娠することは今でも大変なこと。当時はもっともっと大変だったであろう。
世間の風当たりは当然強く、後ろ指を指されるようになることが十分に考えられる。フィアンセのヨセフが同じように白い目で見られるという心配もあったかもしれない。婚約も解消されることも十分考えられる。あるいはこの時マリアはひとつひとつのことを冷静に考える余裕もなかったのかもしれない。それはマリアにとってとても負いきれないような事柄だったに違いない。
マリアにとって未知の世界が始まろうとしている。もちろん不安も恐れもあったであろう。しかしマリアはそのことも受け入れていこうとしている。「お言葉通りこの身に成りますように」。マリアが身ごもったことは聖霊の働きであったと言う。しかしマリアがそのことを受け入れることができたのもまさに聖霊の働きがあったからこそであろう。
特にマリアが信仰深かったからこそそうできたというわけではあるまい。マリアが理想的な女性というわけでもあるまい。マルコによる福音書を見るとマリアは何人もの子どもを生んで育てたおっかさんだったようだし、イエスが弟子たちを引き連れて伝道を始めるとわが子の気がおかしくなったのだと思って連れ戻しにくるような母だった。多分マリアは聖人でも聖母でもなかったであろう。特別私たちと変わったところもない普通の人間であったのだろう。疑ったり、恐れたり、不信仰になったりするような普通の人間であったのだろう。
特別視
しかしそんな普通の人間であるマリアを神は選ばれた。このマリアを特別に選ばれた。しかし神はマリアだけを特別に見ているのではなく、マリアと同じように神は私たちひとりひとりを特別に見ている、と聖書は告げる。
聖書のいろいろな出来事の中で、本当にそんなことがあるんだろうか、と思うことがいっぱいある。いろんな奇跡のことや、えらく信仰深い話があったりする。しかしそれ以上に信じられないと思うことは、神がわたしの事を特別に見ているということ。一人一人を大事に思っているということ。「どうしてそんなことが」と思う。どうして神がいちいち私ひとりのために、特別に配慮なんかするもんか。こんなだらしない、駄目な私のことなんかそんなに思ってる訳がないと思う。
しかしこんな言葉をどこかで見た。
世界中が見捨てた所を神は見つづけている。人間の考えではもっとも神から遠いと思われる所に神はいる。まさかここに奇蹟はおこらないだろうと思われる所で神は奇蹟を起こす。
人間が失われたというところで神は見いだしたという。
人間が裁かれたというところで神は救われたと言う。
人間がそんなことではだめだ、こんな自分ではだめだというところで、神はいやそれでいい、お前のままでいい、そのままでいい言う。
人間が投げやりな気持ちからそんなこと起こるわけがないと思い、もう諦めたと思うところに、神は愛のこもった目を向ける。
うっそー
おめでとう、主が共におられます。これこそがクリスマスのメッセージである。主が、神が共にいる。私たちが気付く前に、私たちが信じるより前に、主が共にいる。気付いている時だけではなく、信じているときだけではなく、いつも神が共にいる。神の方が私たちの方へ近づいてくるから、神が私たちと共にいようと決意したからだ。
恐れ
マリアは恐れた。しかしその恐れを持ちつつ、言葉通りになりますように、と言ったのだろう。そしてそこに神の業は起こっている。恐れるな、と天使に言われるような恐れを持ったマリアに神の業が起こったのだ。私たちは恐れを取り除くことの方に関心を持ちすぎているのかもしれない。信じて祈るところに奇跡が起こるのだ、なんて聞くと疑い恐れを抱くことが悪いことであり、全く疑わないこと、全く恐れないことが優れたことということになる。でも果たしてそうなのか。神はそんな全く恐れず全く疑わない人のことだけを大事にするのか。そんなことはない。
どうして
どうしてそんなことがありえましょう、とマリアは言った。どうして私がそんなことできるでしょう、と言うのは私たちの決まり文句でもある。私にそんなことが起こるはずがない、私にそんなことができるはずがない、今の私には無理だ、まだその時でない、と私たちは思う。そうやって私たちは自分自身で何もかもできなくしてしまう。でも神がそうすると言われたならばそれはもうその時が来たと言うことだ。あなたがするのだ、今のあなたにそれをしてもらう、と神に言われているのに、私にはできない、まだ出来ない、と思う。しかしそう思うことで私たちは自分の務めを拒否し、神を拒否し、そして神の恵みを拒否してしまっているのかもしれない。
何かをするようにと頼まれることはしんどいことだし面倒なことだ。神からの務めもしんどいことかもしれない。そんなこともある。しかししんどい面倒なことをすることから喜びが生まれるのだろう。自分がそこにいることの意味を、生きていること生かされていることの意味を知ることが出来る。何かをすることで、そこに喜びが生まれる。自分の能力、賜物を活かすことはしんどい面倒なことだ。しかし誰かのために自分に与えられているその賜物を活用することで私たちは喜びを得るのだろう。
与える
受けるよりも与える方が幸いである、とイエスは語ったそうだ。与えることは自分が損をすることである。与えることは自分が疲れることである。自分の持ち物が減ってしまうことである。でもそこには与えることで初めて得られる喜びがある。きっと与える以上の恵みがある。だから与えることは実は恵みなのだ。分けることは恵みなのだ。恵みがない、喜びがないというのは、実は一所懸命に自分のものを抱え込んでいるからかもしれないと思う。
イエスは私たちにも与えるものになるようにと言われているのではないか。持ち物を、賜物を、そして愛を与えるようにしなさいと言われているのではないか。しかしそれは私たちのいやなことを無理強いさせているのではなくて、そのことが一番の喜びだから、それが一番の恵みだからなのだと思う。
イエスは自分の命さえも与えた。クリスマス、それはお言葉通りこの身になりますように、と自分自身を神に捧げる時でもあるのだと思う。そして神が自分を何に用いようとされているかを聞いていくときでもあるのだと思う。