牧師のひとり言の目次
ゆ る し
先日、東日本大震災の際に逃げ遅れて大勢の子供達と先生が亡くなった小学校についてのテレビを見ました。校庭に集まった後、しばらくして学校の裏山ではなく少し離れた高台に避難する途中に津波に呑み込まれたということでした。子供を亡くした親たちは、地震から津波が来るまでの50分程の間に何があったのかを知りたくて教育委員会に説明会を求めるなどしていましたが、納得する説明をしてもらえず、逆に隠そうとしているため裁判を起こすことになった、というようなことでした。
親たちは誰が悪かったのかと追求したいのではなく、真実を知りたいだけだと言っていましたが、教育委員会側は裁判になったことを理由に余計に口をつぐむようになったようでした。
一人の親が、先生たちは裏山に避難して津波が来なかった時、服が汚れたじゃないか、というような非難をされたくなかったのではないかと言っていました。
今の社会は間違いを認めない、そして赦さない社会なのではないかと思いました。津波も来ないのに避難したという間違いを起こさないため避難すべきかどうかの判断がなかなか出来なかったのではないか、間違いは赦されないと思うからこそ間違わないことを最優先したのではないかと思いました。そしてまた間違いを隠そうとして認めないのではないかと思いました。
人は間違いを犯す生き物です。そして人には赦しが必要なのだと思います。赦しがなければ間違いを認められず赦すこともできません。人は赦されることで人として生きていけるように思います。
『そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。』(ルカによる福音書7:48)