牧師のひとり言の目次
できそこない
いつまでもだらだらと踏ん切りがつかない。何をするにしても間際までやっている。どうしてなんだろうとずっと思っていた。性格だから仕方ないのかもしれないが、どうもそれだけではないようだ。要するに、これで出来た、これで終わり、これでよし、と思えないのだ。だからどんなに時間をかけても手間をかけても、自分の判断で終われない。結局は時間がくるまで止められない。
どれだけやっても完全なものが出来るわけでもない、なのに不完全なものを自分が認められない。不完全な人間に完全なものが出来るわけがないのに、それを認められないのは、どうも自分が不完全であることを自分で認めてないからのようだ。罪人であること、それは要するにできそこないなのだとどこかの牧師が言っていたが、そのことを誰よりも自分自身が赦せず、嫌っていて、認められないようだ。
自分のできそこないを自分が認められないから、自分の間違いや失敗に殊の外怒ったり、落ち込んでしまったりするのだろう。
イエスは言った。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
イエスはこんなできそこないを招くために来たのだそうだ。自分がいかに駄目なのかということだけに注目するのではなく、それにもかかわらずイエスに招かれているという、とんでもない事実に目を向けんといけないようだ。