牧師のひとり言の目次 

ごめんなさい

 日本はごめんなさい、と言わないといわれる。かつての戦争についても日本はいろんなことに関して謝罪していないといわれる。日本だけが悪かったわけではない、いい面もあった、どうして日本だけが謝らないといけないのかということのようだ。
 個人的にもいろいろと理由をつけて、これこれこうだったから仕方ないのだ、周りが悪かったからだ、お前だって悪い、というようなことを言って謝罪しないことが多い。
 そういう話を聞くと、謝罪もしないとはけしからん奴らだ、と他人事のように簡単に批判したり、負けず嫌いな奴だ、頑固な奴だなんてことを思うこともある。
 でも本当は、謝らないというよりも謝れないということが多いのかもしれないと思う。謝ってしまったならば、過ちを認めてしまったならば、そこで自分がなくなってしまうような気持ちがあるのではないか。過ちを犯すような自分を誰も認めてくれない、みんなからばかにされてしまう、そんな怖れがあるから謝れないでいるのではないだろうか。過ちを犯し間違い罪があるという自分を誰も認めてくれない、愛してくれないという思いがあるからごめんなさいと言えないのではないか。そして自分自身もそんな自分を認められないでいるのではないか。
 しかし神は過ちを犯さない、誤りのない人間だけを愛しているのではない。そんな人間だけを特別に可愛がっているのでもない。そのままの私たちを、間違いのあるままの罪のあるままの私たちを愛して認めて受け入れてくれているのだ。
 謝ればそのことから解放されるのに、謝れないためにずっとそれを引きずり、ずっと苦しい思いから解放されないということになってしまう。
 大丈夫だ、私があなたを支えている、私は決してあなたを見捨てない、だから自分の間違いも罪も認めなさい、そしてそのことから解放されなさい、神はそう言われているようだ。
 「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。」(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)