牧師のひとり言の目次
合 格
高校の時、英語や歴史などでよく赤点(欠点?)をとっていた。初めの頃はどうしようかなんて思っていたが、だんだん当たり前になっていた。ところが3年の最後の英語のテストで平均を上回っていて驚き、なかなかやるじゃないかと喜んだのを覚えている。しかしいつも赤点ばかり取るのもいやなものだ。いつもいつもお前はだめだ、だめだと言われているようでいい気はしない。
何をやっても誉められるよりも間違いを指摘され、ことあるごとに駄目だ、まだまだだ、と言われてきたせいなのか、なんだかいつも自分がだめな人間のような気持ちがある。いつも不合格に違いないというような気持ちがある。だからちょっとしくじったり責められただけで、やっぱり俺は不合格な人間なのだと思ってしまう。
合格するためにはもっといろんなことを知って、もっといろんなことが出来て、すぐに正しい答えを出さないといけないような気持ちがある。それにひきかえ今の自分ではまるでだめな、赤点のような気持ちがある。今はまだまだ駄目、しかし一体どこまでやれば合格なのだろうか、このままではいつまでたっても合格しそうにもない、そんなことを考え落ち込んでしまう。
ところが聖書には「わたしの目にあなたは価高く、貴く」(イザヤ書43章4節)なんていう言葉がある。神は私たちのことを、お前はとても高価な貴いものだ、と言っているらしい。ということは実は私たちは合格だ、ってことじゃないのかな。ということは自分のことも周りの人のことも駄目だ駄目だと思うこともないってことかな。しかしこんな人間のことが高価なのか。馬鹿げた話だ。でもなんだか嬉しくなる。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピの信徒への手紙4章4節)という言葉もある。不合格だったら喜べない。合格だから喜べってことじゃないのかな。あなたは合格だって知ってた?