牧師のひとり言の目次
聞けない
先日久しぶりに深夜のテレビの討論番組を見た。そこではやっぱりみんなよく喋る。相手を押しのけて喋る人が多い。他の人の意見も聞きたいと思ってもなかなか聞けないということもある。
その討論の中でもあったのだが、最近気になっていることがある。それは人の話の途中にその話を取ってしまうということだ。誰かが話している最中にその人の話を要約してしまったり、あるいはまだ話が終わってなくて結論を言ってないのにそれに反論したりすることだ。日常的にもそんな光景をよく見かける。分かったつもりで要約したり反論したりするけれども、実はその人の本当に言いたいことが分かっていないことが多いようだ。きちんと聞いてないから分からないのももっともだが。
何となく相手のことを分かっているつもりでいるから聞けないのかもしれないと思う。分かっているからことさら聞く必要もないという思いがあるのではないかと思う。でも本当はきっと何にも分かってはいない。分かってないからこそ聞くのだ。分からないことを分かろうとするから聞くのだ。そうだ、分かろうとする気がないから聞けないのだ。
話を聞けないということは相手を、相手の気持ちを、相手の心を分かろうとする気がないということの現れなのかもしれない。
愛することは聞くことからはじまるような気がする。