牧師のひとり言の目次
感じる心
戦争や差別の問題を語るときに、足を踏まれる者と踏む者ということが言われる。足を踏んでいる者が踏まれている者に対して踏まれているという証拠を見せろ、痛いということをわかるようにもっとちゃんと説明しろと怒っているようなことがよくあるということのようだ。踏んでいる者がまた踏まれている者を糾弾するようなことがあるらしい。
しかし踏まれている人のその痛みを踏んだ人は分かるというのもなかなか難しい。その痛みを足で直接感じることはできない。かつて足を踏まれた経験をしたことがあればあるいは分かるかもしれない。しかし昔の痛みをその当時のままに感じることも出来ない。結局は踏んだ者は踏まれた者の痛みを自分の足や自分の経験から感じることは出来そうにもない。どれほど想像力をたくましくしても踏まれた者の痛みを踏んだ自分一人だけで感じることは多分出来ない。
踏まれた者の痛みは踏まれた者を通してしか感じられないのだろう。踏まれた者をよく見つめることでしか、その声をその心をよく聴くことでしか感じられないのだろう。自分にどれほど想像力があるかよりも、相手から感じる心があるかどうかが問題のようだ。