牧師のひとり言の目次
ことば
この社会にはごもっともな言葉がうようよしている気がする。全く反論の余地のないような正論をよく聞く。その通り、ごもっとも、としか言いようのない言葉が氾濫している。正論を言うことで言った本人は正しくなったような気にはなれる。正論は人を責めるときの道具にもなる。しかしその正論が本当に自分のからだから出てきた言葉と思えることは実に少ないように思う。
「言葉とからだが切り離されている。」ある合唱の指揮者がそのようなことを言っていました。ただの音としての言葉、誰かから聞いただけの言葉、頭の上を飛び交っているような言葉、思いのない言葉、からだから滲み出たのではない言葉、そんな言葉で誰かを翻弄し、そんな言葉に自分も翻弄される。
からだと切り離されていない言葉、からだから滲み出た言葉、自分の思いの詰まった言葉、そんな言葉こそが相手に通じるように思う。そんな言葉が人を癒し、力づけるのだろう。そういう言葉は正論ではないことが多いように思えるのはなぜだろうか。