牧師のひとり言の目次 

 駄目、おかしい、違う、けしからん、、、というように断定する言葉をいとも簡単にしゃべっています。特に相手が自分よりも弱い立場の者に対しては問答無用になってしまいます。子どもが相手だと特にひどくなります。
 以前、児童精神科医だったでしょうか、その人が司会をして思春期の子ども達と、周りの人との人間関係についての話をするというテレビ番組を見たことがあります。その中でその司会者は誰の意見に対しても、それはおかしいとか間違っている、こうすべきだということをひとことも言いませんでした。その話の中には全く反対の意見も出てきたのにどっちの意見もしっかりと聞いていました。僕はテレビを見ながら、そうじゃないよ、それは違うよ、と思いつつ聞いていて、中にはそれはおかしいというようなことを発言する子どももいましたが、その意見に対しても司会者は「あなたはそう思うのね」と言って決してその人の意見を否定する事は言いませんでした。話の内容はほとんど忘れてしまいましたが、その司会者の対応にはびっくりしてしまいました。子ども達はどんな意見も否定されることなく最後まで聞いてもらうことでしっかりと自分の意見を話していたようで、中には話しながら泣いている子もいたように記憶しています。
 ついつい他の人を否定してしまいます。服装、態度、考えなどどうでもいいつまらないことまでつい否定的なことを言ってしまいます。相手を否定することは自分の正しさを主張することでもあり、なかなか気分のいいものです。そしてしばしの優越感に浸ることができます。
 しかしその時自分と相手との関係は、主人と奴隷のような関係となってしまっています。相手を自分の思うように正したいと思う気持ちになることがあります。しかしもし相手が自分の思い通りになったとしたら、その人はもう人ではなく自分の奴隷になったようなものです。否定的な言葉を発することで目の前にいる人を奴隷に出来るかもしれません。しかしそこに愛はあるのでしょうか。
「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネによる福音書15章17節)