牧師のひとり言の目次 

正 直

 いつも立派な人間でなんかいられない、そんなにいい人間じゃないんだからと思う。どうせメッキはすぐにはがれるんだからもっと正直に生きればいい、かっこつけず、ありのままにと思う。だがなかなかそうできないでいい格好をしてしまう、無理をしてしまう。
 無理をするから疲れる。無理をするからいらいらする。無理をするから文句が出る。
 無理をすることはうそをついていることかもしれない。まわりに対しても、自分に対してもうそをついているのかもしれない。ありのままの自分を見つめること、そして認めること、それはなかなか大変だ。正直になることは案外難しい。
 我が家でもいい子でなければならない子の人生は緊張の連続だ。ありのままの自分をいつも必死に隠していなければならないとしたら、その子にとっては毎日が安心感のない、ゆとりのない人生に違いない。
 教会でも正しい、間違わない、怒ることもない、立派な人間でいなければならないとしたら、その人にとっての教会は緊張の連続する疲れる教会だろう。しかし私たちはつい、悪い思いや醜い欲望を微塵も持っていないような顔をしてしまう。そして、正しくないとか愛がないと言って人を責めてしまう。
 しかし教会はそんなところなのか。立派な人間でなければならないのか。正しい人間でなければ、立派な信仰者でなければならないのか、そんな振りをしなければならないのか。
 私たちはいつしかそんないい人間、いい信仰者という重い鎧をつけている。私たちこそ重荷を負って苦労している人間ではないか。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11:28)
 イエス・キリストのもとでこそ、教会でこそありのままになれる、正直になれる。これも無理している?