牧師のひとり言の目次 

他山の石

 人の間違いや失敗をとやかく言う時、大概その時は自分は間違わない側にいる。正しい側からあーだこーだと言う。こんなことしたから間違ったのだ、こういう風にしないから失敗したのだ、ここはこうすべきなのだと分析し助言する。
 厄介なことに、間違いを指摘し失敗を責めることはなかなか気分がいい。それは、自分が優越感を持つための一番手っ取り早い方法かもしれない。正しいことを言うことで、自分はそんなことを間違うような、失敗するような人間ではないという気になってくる。
 多分正しいこと、もっともなことを言っているのだろう。でもそれはあくまでも間違わない者、失敗しない者から見たものの見方である場合がほとんどだ。そこには間違い失敗した者の大変さや痛みや苦しみを感じる心はない。確かに正しいことは言っているかもしれない、しかし多くの場合、その人の苦しみを増しやる気をなくさせることはあってもその人の助けとなることはない。それは多分間違った人のためというよりも、自分のために言っているからだろう。相手を元気づけ、慰め、立ち直らせる力となるためよりも、自分の虚栄心を満足させるために言っているからだろう。
 全く正しくごもっともなことを言ってたとしても、聞かされる方にとっては「正しすぎて反吐が出る」思いがする。正しさがはびこりすぎると、いたわりや優しさや愛がなくなる思いがする。
 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(ルカによる福音書6:31)