牧師のひとり言の目次 

価 値

 私たちは人に価値があるとかないとかいう。でもその価値があるとかないとかをどう判断しているのだろうか。
 仕事もできない、社会に溶け込むこともできない者は価値はないのだろうか。障害を持っている者は価値がないのか。動けない者は価値がないのか。人に世話にならないと生きていけない者は、老人は価値がないのか。
 労働力となる者こそ価値があるという見方がある。確かに何かものを作るという面から見れば労働できるものこそ、つまり心身共に元気で働けるものこそ価値があるということになる。そして私たちはどこかそんな価値観を持っている。それはナチスの考え方と同じだと聞いたことがある。
 私たちはそんなふうに自分が何を持っているか、どんな能力を持っているか自分に何ができるか、と言うことで自分の価値を判断する傾向にあると思う。才能だけではなく、お金を持っているか、美貌を持っているか、ということで自分には価値があるとかないとかいうことを判断している。あるいはまたこんなすごいことをしてきた、あんな苦しいことを経験した、という過去の業績があることが自分の価値であると思う。
 そんなふうに自分に何があるか、自分がどんな才能や業績や財産や名誉を持っているかどうか、そこに自分の価値を見いだそうとしている。そして小さいときから一所懸命にいろんなもの、自分の価値を高めることにつながる何かを持つことを目指して生きている。とにかくいっぱい、できるだけ希少価値のあるもの、他の人がなかなか持てないものを持つこと、それを必死に求めている。
 しかし人の価値はそんなふうに持ち物によって決まるのだろうか。価値はそう簡単には決められない。絶対的な基準があるわけではない。株価が毎日上がったとか下がったとか言っているように、物の価値もそれ自体に決まっただけ持っているわけではないようだ。
 子どもにとって何物にも代え難い価値のある一枚のカードが、大人にとってただのゴミであるように、カードの価値はカード自体が持っているというよりも、それを手にする人間がどう思うかということにかかっているのではないか。人間の価値もその人自身がどうであるかということよりも、その人間を他の者がどう見るかということではないか。
 私たちは神から大事なものと見られている、だからこそ大事なのだ。神に愛されている、だから価値があるのだ。そこに究極の価値がある、と思う。