牧師のひとり言の目次 

ポ カ

 高校の現代国語の授業中、教科書を読ま順番がまわってきた。たまたま読んでいる文章の中に「否む」という言葉があった。なんだっけとしばし詰まってからほとんどはったりで「いなむ」と言った。その時先生が、確か「こばむ」に訂正した。その時は、やっぱり違ってたかと思った程度だった。
 ところが次の授業の始めに先生が「このまえの授業で間違いがあった、否むは『いなむ』が正しい読み方だった、浅海が正しかった」というようなことを言った。
 ただ単に自慢話としてこのことを覚えているのだが、確かあの時先生は弁解することもなく自分が間違っていたと認めていたように記憶している。それって結構すごいことじゃないかと今頃になって思うようになってきた。自分がそんな立場になったらどうなっていただろうか。きっと間違ってしまった自分のだらしなさを嘆き、周りは自分のことを見下すのではないかと心配するだろう。そしてたまたまそこだけ知らなかっただけで他のことはこんなに知っている、たまたか疲れていただけだ、歳をとったから仕方ない、などと一生懸命に思いつく限りの弁解をするに違いないだろうと思う。
 自分に間違いがあることを認められない、認めたくない、そんな思いがある。しかし間違いのない人間はいないだろう。ならば自分の間違いを認めないということは、結局は本当の自分自身を認めない、自分をゆるさない、とても無理をし疲れる生き方をしているように思う。
 きっと人間は、いけてる女でなくても「ポカするものよ」。だからこそ暖かい、のではないかな。