『これが人間の知恵である。この世で一番大事なことは、自分が「どこ」にいるかという事でなく、「どの方角に」向かっているか、という事である。』(オリヴァー・ウェンデル・ホームズ)
法律は人を罰するか、罰しないかの境界線だ。違反すると罰せられ、違反しなければ罰せられない。
律法は、法律の字をひっくり返しただけのようだが、人を罰するか罰しないかの境界線を定めたものではないようだ。旧約聖書の律法にはこれこれこうしなさい、と書かれてはいる。それを守らなかったことで罰せられたというようなことも書かれている。しかし赦されたと書かれていることも多い。
どうも律法は、守らない人間を罰するため、裁くためにあるのではないような気がする。神に聞く生き方を教えてくれているもののようだ。つまり私たちの進むべき方向、神の方向を示している道しるべのようなもののようだ。だから律法はどこまでが合格で、どこから不合格というような、どこまでが許されて、どこからが罰せられるというような境界線ではないようだ。
法律は「どこ」にいるかを問題にする、しかし律法は「どの方角に向かっているか」を問いかけるもののようだ。
聖書は、私たちがどこにいるかによって罰したり罰しなかったり、合格者と不合格者を分けたりするためのものではないようだ。そうではなく「どの方角に」進むべきか、どう生きればいいか、そんな方向を示しているものだと思う。人を裁いたり自分を裁いたりするためのものではないだろう。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)
法律と律法はまるで違うものらしい。