牧師のひとり言の目次 

 ある人が、50代になって鬱状態になったときに、毎日ひとつずつ喜びだったか嬉しかったことだったかを書くことにしたそうだ。ところが最初はなかなか見つけられず、毎日ひとつのことを書くのにも苦労したそうだ。しかしこれを続けていると次第にどのことにしようかと、いくつかある中で迷うようになったそうだ。
 同じことでも嬉しいと思う人と思わない人がいる。同じ人間でも嬉しいと思うときと思えない時がある。嬉しいことなど何もない、なんか起きないかと待ち望む時がある。でも実は嬉しい出来事がないのではなく、ただ嬉しく思えないだけなのかもしれない。嬉しいことがないのではなく、嬉しく感じる心がないだけなのかもしれない。
 怒ることも、喜ぶことも癖になるような面がある。いつも怒っていると、ほんのささいなことにもすぐに腹が立つ。いつも喜びところにはいっそうの喜びが見つかるような気がする。
 「いつも喜んでいなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5章16節)それは喜べないことも無理にでも喜べということではなく、喜びを見つけなさいということなのかな。
 喜んで生きるか愚痴って生きるか、どっちを癖にするか、それは自分で決められることなのかもしれない。