牧師のひとり言の目次
青い鳥
喜びはどこにあるのか。多分みんなそれを探している。毎日を喜びを持って過ごすことができればどんなにいいだろうと思う。でもそんなに喜んでいられない、喜ぶ材料もそんなにある訳ではない、と思う。
私たちはよく喜ばしい出来事が起きることを望む。それはいつもは起きないような特別な出来事を待ち望んでいるのではないか。つまり今はないものが起きること、今はないものが手に入ることを求めているのではないか。そうすれば喜べるのではないかと思っているのではないか。しかしそんなことはなかなか起きてくれない。ないものを求めているからいつまでたっても喜べないような気がする。
病気をすると健康の有り難みがわかる。でも健康な時にはもっと別の何かをものを求めている。そうやっていつもないものを求め、結局はいつまでも満足しない、喜ばない。
喜びを持って生きることが出来るかどうか、それは今あるものを喜べるかどうかなのかもしれない。ないものを得ることで喜ぼうとしてもなかなか喜べない。しかしあるものに感謝し、あることを喜ぶならば毎日喜ぶことが出来る。
私はこんなことも出来ない、地位も名誉も財産も何も持っていない、なんて不幸な人生かと思う。なんて駄目な人間なんだろうと思う。でもそうやってないもののことばかり考えていては嘆きと不満しか生まれてこない。それよりも、私はこんなことが出来る、こんなものを持っている、とあるもののことを考えた方がいいような気がする。
共に生きる家族がいること、共に生きる友がいること、それを感謝しているかどうか。あるものを感謝してないと結局はいつまでも感謝できない、喜べないような気がする。喜びは実は近くにあるのかもしれない。
聖書は告げる、「いつも喜んでいなさい」。それはもっと自分の近くを足下をしっかりと見なさいということかもしれない。そこにきっとイエス・キリストもおられる。