牧師のひとり言の目次
間違い
偉い人の前に出ると萎縮してしまう。完全無欠な人が目の前にいるような気になって、自分のだめさを指摘されそうな気になってしまう。こんな自分ではだめなんだということを身をもって示されているような気になる。
でも本当はそんな完全無欠な人間なんてのはいるはずもなく、その道の権威といわれるような人も結構抜けたところがある。そしてそういう人ほど、その自分の抜けたところをあまり気にしていないような気がする。そんな人ほど、自分が間違ったということに気づくとすぐにそのことを認め謝罪するようだ。
実は偉大な人間とは、誰にも出来ないようなすごいことをする人ではなく、自分の間違いを認めることの出来る人ではないかと思うようになってきた。自分の間違いをそのままに認めること、それこそが誰にも出来ないすごいこと、なのかもしれない。
また偉大な人ほど自分の間違いを笑うことができるようだ。凡人は自分の間違いを何とか隠そうとし、また自分が間違ったことをいつまでも気にする。凡人は自分が間違いを犯す人間であることをなかなか認められない。いろんな口実を探し、一所懸命に弁解はするが、間違ってましたとはなかなか言わない。自分が間違いを犯す人間であることを認めること、人間にとってそれこそが偉大な業なのかもしれない。
「義人はいない、ひとりもいない」これが聖書が告げる言葉だ。義人になろうとする、義人であろうとし義人の振りをする、そこで人は自分を失い疲れてしまう。ありのままの自分をみつめ、ありのままの自分を認めること、そこが私たちの第一歩であるように思う。ありのままの自分を神が見つめ共にいてくれている。そのことを知りそのことを認める、そこに第一歩を歩みだす力がある。