企業買収会社の大富豪社長のパートナーとして一週間雇われた娼婦。ドレスを何枚も買ってもらい、やがて誰からも社長のパートナーとして扱われる。彼女は思わぬ出来事に喜びながらも、自分はそんながらではなくすぐにまたもとの状況に戻るだろうと思っている。社長はずっとパートナーとなることを望むが、彼女はその言葉をなかなか信じられない。しかしパートナーとして接せられることで次第に本物のパートナーとなっていく。なんていうような映画があった。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソの信徒への手紙1章4-5節)
私たちが神の子とされたのは神の子としてふさわしいからではない。それらしくなってから神の子としての待遇を受けるのでもない。ただ神がイエス・キリストによってそうすると決めたからだ。きっと私たちは依然として神の子としてふさわしくない。しかし神はあくまでも私たちを神の子とされる。神の子として扱う。神の子なんておこがましい、と思う。しかし神は依然として私たちを神の子とされる。自分の努力というよりも、神の子として扱われることで少しずつ神の子らしくなっていくのだろう。