牧師のひとり言の目次 

聴 く

 黙って相手の話しを聞くこと、これが実に難しい。相手を否定しないで話しを聞きつづけること、これはほとんど不可能に近いのではないかとさえ思えます。どうしてもつい口を挟んでしまいます。そんなこと言うもんじゃない、そんな風に考えることはおかしいのではないか、そんなことでどうするのか、世の中そんなに甘くない、あなたがそんなことをしたからだ、大変なのはあなただけじゃない、そんなことばかり言ってないで元気出しなさいよ、、、。
 お前はいつも何にも話さない、何でも話しなさい、どんなことでも相談しなさい、とよく言われてきました。ただでさえ自分を責められそうで、こんな自分では駄目だと言われそうで何も言えないのに、話せと言われると相談するすべも勇気もない自分がなおさら駄目な人間のように思えてきて、そんな自分をさらに責められたようで余計に何も言えなくなってしまっていました。どんなおかしなことでも、どんなに突飛なことでも、そのままの自分の気持ちを聞いてもらえるという安心感がないととても本心は話せません。その安心感がないのにそれでも話せというのは拷問に近いものがあります。
 でも人に対しては、どうして話さなかったのかなんて気軽に言ってしまいます。何でも話してみろ、と言うからには何でも聴くという覚悟が必要だろうと思います。その人の本心、苦しみを黙って聴くことは、聴く側にとってもとてもつらくしんどいことです。そのしんどさを負う、相手の苦しみの一部を自分が背負うという覚悟があって初めて相手の話しを聴くことが出来、そこで話す側も安心して話すことができるのだろうと思います。それはただ単に相手の声を聞くだけではなく、その裏にある心を聴くことでもあります。愛するとはこういうことなのかもしれません。何でも話してみろ、というのは相当に重い言葉です。