牧師のひとり言の目次 

受 容

 どうしてかよく分かりませんが、誰かと違う意見を持つ事が悪い事のような思いがあります。いつも周りに合わせて生きてきたような気がします。周りと違わないように、周りと衝突しないようにという気持ちが自然と働いてしまいます。違う意見を持っていたとしても、僕はそうは思わない、なんてことは言えませんでした。みんなとは違う自分だけの意見を言うことに自信がありません。何でそんなおかしなことを言うのか、そんなことを言うものではありません、それは間違っている、そんなことでは駄目だ、と言う声が返ってくることが怖くて何も口に出来ません。そういうことを言われてきたせいなのかどうか定かではありません。でも、そうだったのか、そう思っているのか、そう感じるのか、とそのままの気持ちを聞いてもらったという記憶はあまりありません。自分の本当の気持ちを否定されることが自分自身を否定されることのように感じます。そのことを恐れて相手が認めてくれるであろう自分を演じる癖がついてしまいました。でもそんな嘘の自分を認めてもらっても誉めてもらってもちっとも嬉しくありません。自分自身を偽っているということで余計に自分がいやになります。
 自分の意見を言いなさいと言われ続けてきましたが、安心して話せるという気持ちがないとできません。自分の本当の気持ちを聞いてくれるなら、間違いも何もかもひっくるめて聞いてくれるなら、分かってくれるならそこで初めて本心を打ち明けられるような気がします。そんな風に受容されることで初めて自分を取り戻せるような気がします。そこに癒しがあるような気がします。
 人の心を聞かないこと、頭ごなしに叱りつけること、傷ついた魂をさらに傷つけるようなことがなんと多いことでしょう(と子どもに言われそう)。