牧師のひとり言の目次 

傷 跡

 小学校の運動場で誰かの足にひっかかり両膝を擦りむいて両足から血を流して保健室で治療してもらったことがあった。その後大きなかさぶたができはしたが、ほんの少し何かに当たっただけで飛び上がるほど痛かったのを覚えている。痛くなくなるまで随分時間がかかった。その傷跡が今も残っている。
 ほんのささいなことで落ち込んだり、ショックを受けたりする人に対して、あたなの苦しみはよく分かるがそんなことでどうする、大したことではないではないか、そんなことで悩むな、てなことを言うことがある。確かに傷のない所ならば、あるいは傷が完全に癒えた所ならば少々何かにぶつかってもどうってことはない。でも傷のある所、傷が癒えてない所、まだかさぶたが出来たばかりの所にはほんの少し何かが触れただけでも猛烈な痛みになってしまう。
 多分誰もが心の中にもそんな傷跡を持っているのだと思う。それぞれに傷跡の場所が違うのだと思う。「そんなことぐらいで」と言うのは、痛いと言っている人の傷跡を何度もたたいているようなものかもしれない。しかもその傷は外からは見えないし本人も見せたくないからなるべく見えないようにしている。そのため何度叩いても、叩いている側は痛くも痒くもないのでなかなか気がつかない。その人の傷跡は苦しみ悩むその人の傍らで、自分の傷跡に手を当ててみることで初めて見えてくるのではないか。そうたやすいことではない。
 「しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネによる福音書9:41、口語訳)