牧師のひとり言の目次
評論家
苦しい、悲しい、辛い、といっている人の横にいながら、そしてその声を聞いていながらその人の気持ちを何一つ分かってないなんてことがある。
それはあなたがこうだからだとか、こんな状況だから仕方ないのだとか、これはこうすべきだったのだとか、分かったような顔をして助言することがある。あるいはその分析は全く正しいかもしれないし、自分でもきちんと忠告してあげられた、と思うようなことがある。
それなのに、正しいことを言ったはずなのに、当人の苦しさも辛さも少しも減らない、少しも元気にならずに却って落ち込ませてしまうなんてことがある。そうすると今度はこっちが腹を立ててしまって、慰めるつもりだったのにどうしたことか、なんてことになったりする。
その人の立場になって、という言うだけならやさしい言葉があるがなかなかこれが出来ない。つい傍観者、あるいは評論家になって分析をしてしまうことが多い。
分析をすることで、どうしてその人が苦しんでいるかは分かるかもしれない、でもそれだけではその人の苦しみは全然分かっていないのではないだろうか。
相手の苦しみが分かるためには評論家をやめる必要があるように思う。共にいる、ということは苦しみが見えるところにいる、ということのように思う。
インマヌエル(神、共にいます)とは、神が私たちの苦しみや悲しみそのものが見えるとろこにいる、というインマヌエルなのではないだろうか。
イエスはただの評論家ではないようだ。