街で、薄い着物一枚で、満足に食事もできず、寒さに震えているひとりの小さな女の子を見ました。わたしは怒り、<神>に言いました。「あなたはなぜこんなことをお許しになるのですか? なぜ何かをして下さらないのです?」
しばらくの間、<神>は何も言われませんでした。その夜、<神>は突然お答えになったのです。「わたしは確かに何かをした、わたしはおまえをつくった。」(『小鳥の歌』アントニー・デ・メロ著、女子パウロ会)
祈りは神に願い事をすること、ということは良く知っています。いつもたくさんの願い事をして、それが叶えられたとか叶えられなかったとかいって喜んだり悲しんだりしています。でも人間が神に向かって一方的にしゃべるだけではなく、神からの声を聞くことも祈りの大事な側面だ、と聞きます。祈りは神との対話であるなんてことも聞きます。そうすると神に聞くことをしなければ、それは祈りではないということになります。
いろいろな問題に対して神に向かって「あれをしてください、これをしてください」と祈ります。でもそこで終わって、祈ったから後は神さまがしてくださるはず、と言って神の声を聞こうとしないならばそれは本当は祈っていないということかもしれません。
「神よあの子を助けて下さい」、と祈ります。それに対して神は「わたしはおまえをつくった」と言われているんではないでしょうか。この神の声に「わたしがこの子を助ける」と応える、これこそが祈りなのではないかと思います。
『「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。』(ヤコブの手紙2:15,16)